新生活29週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第2主日 (2021/4/11 ヨハネ20章19-31節)」。新共同訳では、19節に「イエス、弟子たちに現れる」、24節に「イエスとトマス」、30節に「本書の目的」という見出しがついている。ヨハネ伝は21章まであるが、20章の最後の30-31節で書物としては完結していているように読める。まずは、福音のヒントから福音朗読の部分を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

マルコ伝16章、ルカ伝24章に並行箇所がある。ヨハネ伝の27節は物理的に体を伴った復活のイエスを描いていて、ルカ伝では魚を食べてみせるシーンが書かれている。ルカ伝では、この後にベタニアで天に昇ったという記述があり、そこでこの世から離れたという風に読める。マルコ伝本文ではガリラヤで復活の主に再会する話になっている。ベタニアはエルサレムの近くで、ガリラヤとは直線距離で100km以上離れている。ヨハネ伝では、弟子たちはエルサレムから動いていないように見える。実際に何があったかはどうも釈然としない。

ヨハネ伝26節の八日の後という記載をあえて解釈すると弟子たちはガリラヤに逃避行して集まっていたところにイエスが現れたと考えられないことはない。そこからベタニアまで上京してこの段階を終えたと解釈することもできそうである。何があったのかは良くわからないが、イエスの磔刑後しばらくして、エルサレムを拠点としてキリスト教は再び勢力を拡大し始めたのだろう。

イエスの磔刑が執行された以上、弟子たちは反逆者一味ということになるから、逮捕を恐れて隠れていたと考えるのは自然だ。福音のヒント(1)では、そういう状況として解説している。

福音のヒント(4)でトマスの話が出てくる。疑い深いトマスの話は、子供の頃から知っていたけれど、改めてこの箇所を読み返してみると急に親近感が湧いてきた。彼の行動はある意味科学的で、近しい友人が何を言っていたとしても自分で確かめてみないと気がすまなかった。確かめることには勇気が必要だし、行動に移せばごまかしは効かない。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とあるが、やはり私は見たい。正直に言って、見ないで信じるのは困難である。不信仰だと言われるかも知れないが、私は「信じることにした」と言うのが私の信仰だ。誰でも、物理的な体を伴った復活のイエスに物理的に出会えば信じるだろうが、それがイエスであるかを検証する手段もない。実際の心的な変化は、信じることに決めたことによって自分の価値基準が変わるということにほかならないと思う。

福音のヒント(5)で信仰は「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることと説いているのには納得感がある。正直言って、物理的な復活のイメージは容易に得心し得ないが、磔刑によって終わらなかったのは事実。その後にも弟子たちに現れて彼らの行動に影響を与え、その影響は時間も場所も超えて自分の思いや行動につながっているのだと信じている。

私は、今新生活を始めて29週目にある。旅の途中であり、不正義と思うこととと戦っている最中だ。もちろんまちがっているのが自分である可能性は否定できない。少し長くなるが、福音のヒント(1)の一部を引用させていただく。

本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。

カトリック教会も様々な問題を抱えてきたし、今も変わらない。しかし、改善は続いていると思う。時代とともに見える世界は変わる。聖書が安価に自分の理解できる言語で手に入るようになれば、神父の権威は低下するし、不祥事が隠せなくなれば教会の権威も失墜する。しかし、それは道の途中に過ぎない。どんな環境にあろうとも、扉を開いて外に一歩を進めれば、イエスが共にいてくれて道が与えられるから恐れることはない、と考えればよいのだろう。それは、カトリック以外の教会も変わらないと思う。聖書の様々な訳や関連書籍、科学や技術の進化にどう接するかで一人ひとりが見えている世界の見え方は変わる。情報が違えば、推論の結果も変わる。実際には同じ家に閉じこもっていることはできない。しかし、戻ってくる家があったほうが助かる。

※画像はWikimediaから引用したパブリックドメインの「イエスに触れるトマス。ドゥッチオ・ディ・ブオニンセーニャ作。1308-1311頃。」