新生活28週目 - 「復活する」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活の主日・復活徹夜祭 (2021/4/4 マルコ16章1-7節)」。今日はイースター、教会暦的には主の復活を記念する日である。

まず、福音のヒントの記事から、福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 マルコ16・1-7

1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

イエスが納められた墓はどこにあってどんな埋葬だったのか、復活のシーンはどうだったのだろうと考えてしまう。「石は非常に大きかったのである」と書かれているが、どうだったのだろうと想像しないわけにはいかない。

ナショナル・ジオグラフィックの記事「封印を解かれた「キリストの墓」の新事実」によれば、聖墳墓教会の下に現物が残っている可能性があるらしい。ひょっとすると将来イエスのDNAが明らかになるかも知れないと思う。事実は事実として追求されてよいだろう。

恐らくこうだっただろうと書いてある記事「The original appearance of the Tomb of Jesus」もある。蓋となる岩は相当な重量だろうから、女性が動かすのは難しい。エルサレムの春の気温は20度程度だから、遺体はすぐ傷むはずで、傷みを軽減する措置が必要だったのだろう。女性たちは死んだイエスのケアをするために墓に行ったらイエスはいなかったというのが聖書の記述である。福音のヒント(1)では、「当時の墓は洞穴のようになっていて、入口が円盤型の大きな転がる石でふさいでありました」とあるが、引用した記事の想像図では四角い石をはめ込むような形状になっている。どちらでも構わないが、確実な検死の上の埋葬だっただろうから、死体は動かないはずだし、仮に蘇生したとしても自分で出ることはできない構造のように見える。

訪れた女性たちは蓋が空いていたので中に入ったところイエスの遺体はなかった。かわりに「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」のだから、相当なショックだろう。常識的に考えれば、誰かが遺体を移したと考えるのが妥当だ。福音のヒント(3)で触れられているように、オリジナルのマルコによる福音書には、この後のマグダラのマリアや弟子たちに復活のイエスが会った記載は無かったとされている。イエスの遺体は無かったというところで、福音書は終わっているのである。個人的には、この先を書かなかったことがマルコ伝の信憑性を高めているように感じている。事実だけを書いたという印象を読者に与える。

実際には、ゲッセマネの祈りなど、弟子たちが眠っていた最中に誰がそのシーンを見て記録したのかわからない記載もある。何が事実で何が想像で書かれたものかはわからない。復活のイエスがゲッセマネの祈りの時はこうだったのだとマルコに伝えたという解釈は成り立つかも知れないが、史実はわからない。

イエスの復活については、むしろ、使徒言行録9章のサウロの回心(パウロの回心)の方がインパクトがある。

3b サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。

死体がなかったという記載だけで、イエスが復活したと言い張るには無理がある。しかし、復活のイエスが死後も影響を与えているというのは2000年を経ても続いている現実である。ルカ伝には、弟子の二人が復活したイエスに会っているのにイエスだと気づくことができなかったという記述がある。やがて、復活を事実として受け入れて、キリスト教の布教が再開、あるいは新たに開始されたというのがルカ伝、ルカ伝続編の使徒行伝のストーリーだ。そして、使徒行伝の生前のイエスに会っていないパウロに復活のイエスが影響を与えたところで、フェーズが変わったと考えるのがわかりやすい。

ある人が、パウロの信仰が今のキリスト教の基盤だと私に言ったことがある。その瞬間にはピンと来なかったのだが、今はしっくりくる。パウロは生前のイエスに対する興味は薄かったという話もあるが、復活した生きているイエスに直接接したのであれば、人間であったイエスに戻って考える必要はなかったのだろう。過去どうだっかより、今生きているイエスあるいはイエスの教えに従うというのが信仰の本質だと思う。

イエスが物理的に復活したとしても特別な事象であれば、それ自身は現実に影響を与えることはない。だから、人が復活を信じると言っても信じないといっても現実は変わらない。しかし、復活した生きているイエスに従うと考えると行動は変わる。死や苦痛はなくならないが、その意味が変わるからだ。私は、イエスの復活を信じると宣言して若い時に洗礼を受けた。科学的には愚かな声明だと思う。しかし、その愚かな声明は私の行動を大きく変えることになった。復活のイエスは今現在も生きて働き続けているという良いニュース/福音を一人でも多くの人に伝えたい。

現実の問題として、残念ながらイースターを迎えても、2020年6月7日に発生し9月に砧教会を去ることになった問題は解決できていない。オンライン礼拝には参加しているが、思いを共にして進むことはできない状況は解消されていない。苦痛は依然として続いている。ただ、閉じられていた対話のチャネルは再び開いたので、あきらめずに進むべき道を探り続けている。自分にうそをつくことはできない。もちろん、自分が誤っている可能性はあるだろうが、まだ、自分がまちがっていると考えることができない以上進むべき道を探していくしか無い。自分の目が開かれる可能性を含め、明けない夜はないと信じている。

※画像は聖墳墓教会で、Wikimediaから引用したもの(https://ja.wikipedia.org/wiki/聖墳墓教会#/media/ファイル:Jerusalem_Holy_Sepulchre_BW_19.JPG