今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第4主日 (2021/4/25 ヨハネ10章11-18節)」。少し範囲が広いが、聖書箇所を引用する。
イエスは良い羊飼い
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
福音のヒント(2)で以下のように書かれていた。
旧約の律法の中で、安息日について「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31章14節)と言われていましたが、その安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。このことは、言わばいのちがけの行為でした。このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10章11節)と宣言されるのです。
ルールはルールで、当時のユダヤの裁判にかければイエスの行為は死罪相当である。しかし、権力者がこの人を救う行為でイエスを死罪とすれば、民衆の支持は得られない。イエスは律法に照らせば罪を犯したのだが、この時点で罰することを支持する民衆はいなかっただろう。イエスはやがて磔刑になるのだが、当時の権限者ピラトはユダヤの法の支配下になくこの行為で死刑に処することはできないし望まないだろう。イエスも一日善行を遅らせれば、律法違反にならないのだが、そういう制約に従う必要はないと考えたと解釈するのが適当だと思う。
私は、信仰には覚悟が伴うと考えている。罰が伴うようなことでも自責で善い技を行うのをイエスは推奨している。ある意味危険思想だから、慎重にかつ覚悟を持って自己責任で踏み出す事が求められている。環境のせいにしたり、自分が優越的な地位にある組織の名を利用したりする行為は偽物だ。自分は特別ではないと考え続けないと自由は得られない。一方、自分は特別だと思わないと頑張れない。
福音のヒント(4)の「この囲い」は、ユダヤのことを指すと私は思っている。ヨハネによる福音書は地域あるいは民族宗教から世界宗教への変容を主張しているので、ユダヤ人に対する異邦人を指すだろう。それだけではなく、現在のコンテキストで信教に関わらず愛を原則とする福音を伝えよと解釈したい。キリスト教の信者である前に同じ人間である。キリスト者というアイデンティティは力になるが、覚悟が足りなければ排除の理由になってしまう。現実は大変厳しい。
※画像は、ジュリアン・デュプレ 「羊飼い」。ひつじnewsから引用させていただいた。