キリスト教

砧教会から絶縁状をもらった

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絶縁状
プロテスタントでは、クリスマスを大きく祝うのは25日の直前の日曜日だ。後3日。この絶縁状が砧教会の私へのクリスマスメッセージだ。なんと素晴らしいことだろう。何人もの人がこれもコロナのせいだと言う。もちろん、コロナは問題を顕在化させる力があるだろう。コロナは単なるきっかけに過ぎない。私達は、いつも崖っぷちにいるのである。

新生活12週目 - 「洗礼者ヨハネの証し」

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オールド・シティ-から-ギリシャ-テッサロニキ-Google-マップ
福音のヒントに「降誕節は『その闇の中にもうすでに輝いている、小さな、しかし確かな光』である幼子イエスを見つめる」と書かれていた。私は今は闇の中にいるが、少なくとも自分にとって幸いなことにイエスは復活し今も存在していると信じている。能力が足りなくて行動に至れなくても、愛に生きる道は示されている。心の支えである。

コミュニティの維持は微妙なバランスの上に成り立っている

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RIGAの大聖堂
コワーキングスペースの開放性と閉鎖性のバランスという秀逸な記事を読んだ。コワーキングスペースの話として、「外の人からすれば、家ぐらいまでの閉鎖性は、居心地がいいとは言えないでしょう」、「対して、開放性、これはある程度の空気に「ハリ」を生んでくれます」とまとめている。コミュニティをホストするスペースは存続は容易ではない。しかし、恐らく永遠に需要はなくならないだろう。

新生活11週目 - 「神の子イエス・キリストの福音の初め」

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誘惑の修道院(ヨルダン川西岸地区)
マルコによる福音書第一章は今日の「神の子イエス・キリストの福音の初め」で続いて「イエス、洗礼を受ける」、「誘惑を受ける」、「ガリラヤで伝道を始める」、「四人の漁師を弟子にする」、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」、「多くの病人をいやす」、「巡回して宣教する」、「重い皮膚病を患っている人をいやす」とてんこ盛りのイエス伝の導入部である。当時、どんな感じだったのだろうかと想像しながら、ネットで背景をさらって見た。

新生活10週目 - 「目を覚ましていなさい」

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Entreprenörskyrkan
今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は待降節第1主日(2020/11/29 マルコ13章33-37節)。アドベントに入った。クリスマスも年の瀬も近づいた。過去の反省と未来の希望を考える時期である。今年は通うべき母教会を失ったということもあるが、世界的大流行期には集会の開催が公衆衛生上の反社会的行為だから、クリスマスに教会という物理的な場所に集まって礼拝を守るという行為はキリスト教倫理にそぐわないと考えている。

新生活9週目 - 「王であるキリスト」

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アテネで食べたご飯
今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、王であるキリスト(2020/11/22 マタイ25章31-46節)  。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」というメッセージは明確で因果律を説いている。私は、本当にイエスがこの通りの説教を行ったのか疑いを感じている。

宗教指導者は大変だなあと感じた

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聖職者は信者にとっては、単なる一人の人間ではない。信頼関係が成立している限り、この世とあの世をつなぐ権威を感じさせるものである。一方、まがいモノだと思っている人にとっては、信者を騙して地獄に連れて行く邪悪な存在である。そして、宗教に関わる是非は、この世で裁きが終わっても本当のことは時が来るまで分からない。結局は、自分を信じるかどうかという問題となる。

死に接する時に愛とはなにかと考えさせられる

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パウロは、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と書いている。いくら知識を得ても、奇跡的な実行力があったとしても、愛がなければ無に等しいと説く。