キリスト教

新生活60週目 - 「大きな苦難を予告する〜人の子が来る」

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:De_revolutionibus_1543.png
終わりの日があることを意識することで、それはいつかやればよいことから、今やらなければいけないことに変わる。現実には今日とほとんど同じ明日がやってくるが、永遠に続くわけではない。突然事態が変わることはしばしばあるし、もう行き止まりだと絶望しても道が開けることもある。

新生活59週目 - 「律法学者を非難する〜やもめの献金」

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イスラエル博物館にあるヘロデ神殿の模型
献金と税金は何が違うのだろうか。単純には、税金は自分たちのための資金拠出であり、献金は神のための資金拠出だ。たくさんの献金をしていても、それが自分の名誉や権力の維持のためのものであれば、本質的には献金ではない。

新生活58週目 - 「最も重要な掟」

本来律法学者に権威が伴うわけではない。あるはずもない権威にすがって事実に向かい合わないと隣人を愛することができなくなる。この律法学者は、立場を維持する目的ではなく本当のことを求めたので「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのだろう。傷んだ集団にも真実を求める人は残っているから、属性で偏り見てはいけない。

新生活57週目 - 「盲人バルティマイをいやす」

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Panorama of Jericho city from Monastery of Temptation
現在エリコのことはWikipediaで簡単に調べられる。航空写真も見られるし、情報化社会バンザイだ。逆にイメージが作りやすいだけにリアルに自分の目で見たくなる。恐らくイエス一行はガリラヤからヨルダン川沿いに右手に山を見ながらエリコまで下った。いよいよ、エルサレムに向かって1,000m登っていく出だしのところでこの事件は起こった。弟子たちは、気勢を削がれたと感じたかも知れないが、イエスは「誰ひとり取りこぼさない」を実践したのだろう。

砧教会との協議は1mmも進んでいなかったことがわかって落胆した

役員会からの通知が事実と異なっていたことを牧師が表明したのに、役員会では再検討もしなかったし、今後もしないと表明があった。正直に告白すると、もう砧教会はだめかも知れないと思って表題を「もう砧教会はだめかも知れない」として書き始めた。しかし、あきらめてはいけないと思って表題は書き直した。

新生活56週目 - 「ヤコブとヨハネの願い」

正直に言って「栄光をお受けになるとき」が来る気はしない。その時が来ると、その瞬間に世界の全てが変わるのかも知れないが、少なくとも人間イエスの死後2000年が経過してもまだその時は来ていない。しかし、この世は日々天国に近づいていると思う。「仕える者になる」ことを志す人がこの世を天国に変えつつある。