キリスト教

新生活8週目 - 「タラントンのたとえ」

hagi に投稿
Turquie 2009 177 Laodicee.jpg
今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、年間第33主日(2020/11/15 マタイ25章14-30節)  。たくさんの才能を与えられた人が成功して、才能を活かせなかった人はその才能を取り上げられて成功者に与えてしまう弱肉強食的な印象をもつたとえ話だ。子供の時は、この箇所を読んで頑張ろうという気持ちになったが、今は何か違うと感じさせる箇所となっている。

新生活7週目 - 「十人のおとめ」

hagi に投稿
テッサロニキ2018年
今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、年間第32主日 (2020/11/8 マタイ25章1-13節)  。「十人のおとめ」という表題はWikipediaでは「十人の処女たちのたとえ」という項目で紹介されている。聖書の箇所はとくに難しい感じはしない。今回は、その解釈についても再考したが、ユダヤ教の結婚式について調べたり、日の区切りについて調べたりと結構脱線した。世の中は、知らないことに満ちている。

新生活6週目 - 「幸福なるかな、心の貧しき者」

hagi に投稿
今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、諸聖人 (2020/11/1 マタイ5章1-12a節)  。自由学園では文語訳聖書を使っていたので、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」というリズムが心に残っている。単純に感動を誘うが、ルカの並行箇所も見比べて考え始めるとかなり難しい箇所だ。さらに、この説教はマルコによる福音書には出てこない。その意味も気になる。福音のヒントでは、最後にこの箇所の最初にでてくる「心の貧しい」という言葉に改めて触れている。ルカでは付されていない「心の」をなぜつけたのか考えると像を結び始める。

新生活5週目 - 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」

hagi に投稿
テッサロニキ2018年
古い家を出て新しい旅に出るといって5週目。福音のヒントを参照して過ごすという意味では4週目。 年間第30主日 2020/10/25 マタイ22章34-40節。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」の「あなたの神」はどう解釈すればよいのだろうか。「隣人を自分のように愛しなさい。」は同じ神を信じているかどうかなどどうでも良いから別け隔てなく隣人愛に生きよと解釈することができる。 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」という言葉は、セットで一つ、あるいは一つの真実を2つの側面から見たものと解釈したいと思う。「わたしの神」の正義は真摯に向きあっても、「あなたの神」の正義と一致するとは限らないが、誠意をもって隣人愛に生きよと言われていると読んだ。

新生活4週目 - 皇帝への税金

hagi に投稿
テッサロニキの遺跡2018年
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」という問いに対して「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という答えが返されたという有名な話。すべての人に「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているか」という問いが与えられていて、同時にその問を無視する自由が与えられているのだと思う。「あなたは何があなた自身が目指すべき姿だと思っているか」と言い換えれば、その問は、誰の頭にも時折訪れる問いだ。たまには、無視し続けずに向かい合ったほうが良いだろうと思う。

新生活3週目 - 婚宴のたとえに学ぶ

hagi に投稿
古い家を出て新しい旅に出るといって3週目。福音のヒントを参照して過ごしている。年間第28主日 (2020/10/11)はマタイによる福音書22章1-14節。今回は、4つの福音のヒントの中で、これに注目したいというものが見当たらなかったので、どれかにこだわるのではなく、福音書間の比較から学ぶ姿勢を踏襲した。私はルカによる福音書の並行記事の「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を招いてもまだ席があります」という書きぶりが好きだ。ルカの解釈では神はまず虐げられた人を大事にする。そして、虐げられた人を選んで救った後にまだ強者を招く余地があると主張していると取れる。そういう社会システムが構築できたら望ましいと思った。

(コワーキング)コミュニティ

hagi に投稿
みんコワ
昨晩みんコワのみにアンに参加した。コワーキングJPの管理者交代に伴い活性化しているシーンに参加したかったからだ。75分楽しんでふと思ったのは、実は、コミュニティで対面は必須要件ではないのかも知れないという話だった。あっているかどうかは分からない。

新生活2週目

hagi に投稿
古い家を出て新しい旅に出るといって2週目。福音のヒントを参照して過ごしている。第27主日の聖書箇所は『マタイによる福音書21章33-43』(http://fukuinhint.blog.fc2.com/blog-entry-853.html)。幸田氏が書いているように家の主人は神でで農夫達はユダヤ人、息子はイエスという解釈がキリスト教的な解釈としては自然だろう。5つの福音のヒントが提示されていて、私は5番目の「主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと勘違いしてしまった」というメッセージが印象に残った。

最初の日曜日には砧教会の聖書箇所を参考にさせていただいた

hagi に投稿
古い家を出て新しい旅に出るといって初めて迎えた日曜日。砧教会のFacebookページに「27日は《イエスの権威とそれを受け継ぐ弟子たち》と題して礼拝が守られます。聖書箇所「マルコによる福音書」6:1-13」とあったので、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」というフレーズで検索して、20本ほど説教や講話を読んで過ごした。古い家を出てと言ってみても、別に行くところがあるわけではない。その過程で、「福音のヒント」というサイトに出会った。

私の約50年間の砧教会との歴史はこうして終わった

hagi に投稿
私は2020年9月20日から21日にかけて砧教会を離れる決断をした。驚いたことに、その瞬間からもうどうでも良いと思うようになり、今は、少しも砧教会とつながっていたいとは思っていない。同時に呪う気持ちも全く無い。この世ではよくある政治劇の一つで、それはそれだけのことだ。砧教会は事件を忘れて歩みを続ければよいし、私は去ればよいだけだ。破門にしたければすれば良い。白紙委任に票を投じた人たちも事実が知らされていたわけではないから罪はない。牧師、役員は知っていて強行したのだから、そういう意味では罪人だが、政治的にはもう二度目の総会で禊はすんだのだ。後は、憶えているのも忘れるのも自由だ。もう、別れてしまった道だから、前を向いて進んでいっていただきたい。