新生活59週目 - 「律法学者を非難する〜やもめの献金」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第32主日 (2021/11/7 マルコ12章38-44節)」。

福音朗読 マルコ12・38-44

 〔そのとき、〕38イエスは教えの中でこう言われた。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

最初に福音朗読を引用させていただいた。子供のときに読んで、そんなものかと思ったのを思い出す。公立小学校では、強いものが偉いという価値観が前提になっていた。末は博士か大臣かという世界観で、弱者はおいていくか憐れむ対象だった。父が本心でどう思っていたかはわからないが、父の生き方を見て上昇志向が小学校中学年の頃には自分の規範となっていたと思う。貧乏にはなりたくなかったし、上席は目指すべき場所だった。一方で、運動能力は低かったし、成績も大したことはなかったし、人付き合いも下手だったから、気に入らないことが多かった。自己中心的になりながらも、上昇志向で辛うじて生きてきた。今も、状況はほとんど変わっていない。

聖書との出会いは、価値観の転換を迫るものだった。イエスは成功者を高く評価するわけではないし、弱者を無視することもない。自分の中にある小さな成功に伴って起きる高慢はイエスの非難の対象になり、自分の中にある弱さは否定や無視の対象にはならない。自分の中に宿ってしまった上昇志向はいなくなりはしなかったが、偉くなることを目的にしてはいけないと思うようになった。頭の中では、弱者の善行は評価されるべきだと思うようになった。

現実の社会は厳しくて、様々な関門を乗り越えないと、目指す豊かな暮らしにはたどり着けない。失敗すれば失われるものもある。

一方で、成功は罠にもなる。成功体験は自分は選ばれたものという勘違いを助長する。誠実に努力して成功しても、丁寧に振り返ってみれば確実なことなどなにもない。

福音のヒント(1)で律法学者は人々の尊敬を集めていましたとある。今で言う法曹で誰にでも担える仕事ではなかっただろうし、その面での才能があったとしても相応の努力なしには律法学者として生きていくのは難しかったのだと思う。社会的には成功者と言える。権力を濫用する人はいただろうが、恐らくほぼすべての律法学者は誠実できちんとした人だったと想像している。しかし、成功は罠でもある。「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」は成功者が成功者の罠に落ちている状況を表している。「やもめの家を食い物にし」は、人を属性で判断して同じ人間と見られなくなっているからできることだ。より良く生きようと心がけていても、気がつけていないことで道を踏み外してしまう。

福音のヒント(2)で「それは教会の指導者への警告でもあります」とあるように、自分は律法学者のようになることはないと考えてはいけない。牧師でも役員でも結構簡単に罠に落ちる。そして堕ちていることに気がつくことが難しいのだ。

上席を目指すことと上席を好むことは違う。上席を好むということは人の評価を求めているということだ。謙虚に良い働きをしたいと願って上席にふさわしくなろうと思うことには何の問題もない。ただ、努力が実った時に慢心が出てしまうとすべてが台無しになってしまう。逆に人に評価されなかったとしても、大事だと思うことで人におもねってはいけない。

やもめの献金の話でイエスは「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」とあるが、ここは釈然としない。ルカ伝21章の並行記事でも内容は変わらないので、そういう発言はあったのだろうが、本当に全部出してしまえば、生きていくことはできない。正直、よくわからないが、私は、どんなに貧乏になっても神を忘れることなく僅かでも献金をする姿勢が人の正気を保つのだと解釈している。貧乏に限らない。何かの理由で追い詰められても、とにかく献金は続けたほうが良い。献げるという行為には力がある。

献金と税金は何が違うのだろうか。国税庁の「【小学生用】どうして税金は必要なのか」は分かりやすい。

民主主義国家では、税金の使い方は主権者が決める。軍備に使うか、福祉に使うかは主権者が決めることだ。つまり、自分たちのための資金拠出ということになる。

宗教の献金は原則として布教、キリスト教会であれば福音伝道のために用いられる。つまり、神のための資金拠出だ。自分たちのための資金拠出ではない。自分が神のために資金拠出をする意思がなければ出す必要はない。不動産コストも牧師謝儀も福音伝道のために必要だから献金があてられる。神学校が必要だと考えれば、そのための資金を集める必要があるし、開拓伝道にはカネがかかる。献金は自分のための金ではない。神への信任の象徴である。額に関わらず献金ができなくなったら、信仰が失われている状態に陥っていると考えたほうが良い。

教会活動の維持のために献金するというのは現実的な解釈なのだが、本質的にはそれは違う。集まった献金は本来神のものだ。その運用は神の意志を表すものでなければいけない。出し手の観点では、献げた時点で完全に自分の手から離れると考えなければいけないお金となる。そしてその献金への評価はちょっと変な表現だが神の専権事項となる。人の価値観で量るべきことではない。神が、あるいは人の子が「やもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言えば金持ちの多額の献金より価値が大きいことになる。秤は経済社会の価値とは関係ない。献金額がゼロの人であっても神の評価は人は知ることはできない。だから、出したいだけ出せばよいし、出さなくてもよいことになる。それでも、私は出したほうが良いように思う。金は大事なものだから、その使い方には心を支配する力があるからだ。

献金を何に献げているのかが問題となる。惰性で出せるお金では意識しないが、出すのが困難になったり、出す気持ちが失われたときに初めて何に献げているのかが問題となる。現世利益を求める人もいるだろうし、自分ひとりではできないようなことを目指して出す人もいるだろう。そういう意味では政治献金と教会献金は大差ない。

律法学者は献金の使い方に影響を与える立場にある。然るべき立場にある人は、理論的には神が選んだのであってその人が特別だったわけではない。自分がルールの外側にいると考えてしまっていれば、その人は然るべき立場に居続けてはいけない、あるいは神がダメ出しをするというのが今日の箇所と考えてよいだろう。「律法学者に気をつけなさい」というメッセージは、尊敬を集めているような人を盲目的に肯定してはいけないということだと私は理解している。慢心した指導者はやもめの家を食い物にし、不幸を増大させる。

自分に目を向けた時、献金は信仰のバラメータになる。他人に目を向けた時には献金は信仰をはかるはかりにはならない。

自分のために力を使う指導者を神は評価しない。与えられた権力を神のために使っているか、自分のために使っているかは他人にはわからない。自分でもわからないかもしれない。

※画像は、Wikipediaの第二神殿から引用したイスラエル博物館にあるヘロデ神殿の模型。左手前の門から入った広い場所が女性の庭。ここでイエスは人々の動きを見ていたことになる。