新生活61週目 - 「ピラトから尋問される」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「王であるキリスト(2021/11/21 ヨハネ18章33b-37節)」。

B年最終主日の「王であるキリスト」の祭日。神の国の終末的な完成を祝う日なのだそうだ。

福音朗読 ヨハネ18・33b-37

 33b〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

この箇所を読むと映画のJesus Christ Superstarを思い出す。映画では、ピラトはピラトがイエスの命を握っていると考えていることを表明する。それに対し、イエスはあなたには運命を変えることはできないと言う。強く印象に残るシーンだ。ピラトがイエスのことをどう思っていたかはわからない。取るに足らない小物と見ていたのか、放置しておくと危険な存在と思っていたのかもわからないが、ユダヤの宗教指導者たちとの関係を損なうことは避けたかっただろう。関わりになりたくなかったのではないかと想像させる記事だと思う。

「お前がユダヤ人の王なのか」という問いは、共観福音書の英語訳だとみな"Are You the King of the Jews?" "You have said so,"という表現になっていてヨハネ伝とは返答がちがう。ユダヤ人の中にはイエスがユダヤの王となることを願っていた人がいて、当時のユダヤの権力者は当然そんなことは認められない。イエス自身は、どう考えていたのだろうか。支配者を指向していたようには見えない。むしろ、権威も権力も神にあり、それに忠実であろうとしているように見える。 ユダヤ人の王になることは望んでいなかったと思う。だとすると「お前がユダヤ人の王なのか」という問いは意味を持たない。それはあなたが言ったことだという回答は、そもそも質問に意味を見いださないという表明にも取れる。その後沈黙し、議論に参加していないので、王を論じることの意味を見いださなかったということかも知れない。

復活のイエスは支配者かと考えると、それはイメージにあわない。イスラエルの最初の王はサウルとされているが、王が存在する前にも権力は存在し統治はなされていた。部族を超える長として王を決めたというのが史実だろう。イエスの時代はローマの時代で皇帝が帝国として被支配国に対する命令権を確保していた時代である。ヘロデ大王は王だが支配権は限定的で独立は失われていた。少なくともユダヤの王には自由な裁量権はない。

祭司は、神の法を機能させることを使命とする。神の法を正義とするためには、独立が必要でローマの介入を許せば目標は達成できない。真剣に神を信じていた人からすれば、外部勢力の介入を許さない正邪を決める体制を確立することは必要となる。そういう体制を確立したとしても、判断できないことは残るから、最高権限者を充てて実現しようというのが王国ということになるだろう。表から見れば、イスラエルの王国化はその実現ということになる。しかし、裏から見れば、それは権力の構造の確立となり、不正の温床にもなる。教会もバチカンもその汚染から逃れることはできない。神の国は王国の延長線上にはない。

王は一過性で相対的な身分に過ぎない。王は、誰かがその人を王と言っているという以上のことを意味しない。権力の軸で見れば重要だが、実態は単なる一人の人間に過ぎない。人間イエスも単なる一人の人間に過ぎず、その時期の権力の支配下にあり、死ぬ存在である。

復活のイエスは、もはやこの世の権力の支配下にない。死刑という極刑も意味がないわけだから、この世の権力から独立した自由な存在となる。

復活のヒント(3)にある「わたしの国はこの世の中からのものではない」は当時の教会の解釈を文書化したものだろう。神もイエスも王ではない。

一方で、現実の世界ですべての人が生き生きと生きていく愛に満ちた形を実現するためには、神の法が機能しなければいけない。現実には権力は必要となる。イエスがやったことは、この世の王国に勝つことではなく、この世的に言えばこの世の王国の乗っ取りだったと言えよう。王を最も下から支える存在に置くことを新たな価値観として提示したのだ。

人に仕える人としての能力を高めていくことが望ましい生き方であり、王のいらない世界を目指せば良いのだろう。支配者に落ちてしまったリーダーがその罠から脱することができるようするか、その役割から外すことができるようにするか、どちらでも良いと思うが、集団ヒステリーを扇動して事実を叫ぶものを排除することは、イエスを十字架につけることと同じことだ。できることは、事実に向かい合い、真実に迫るために不断の努力を行うことだけだろう。真実あるいは「隠されていないこと」は大事なキーワードだと思う。

プライバシーはともかく、隠し事をしなければいけない指導者は、それだけで不適格だ。どれだけ言葉で飾ろうと、やがて、神殿の内面を腐敗させ不実が支配する空間に変えてしまう。祭司には責任が伴う。