新生活65週目 - 「マリア、エリサベトを訪ねる」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「待降節第4主日 (2021/12/19 ルカ1章39-45節)」。

多くのプロテスタント教会では、アドベント第4主日はクリスマス礼拝だが、カトリック教会ではクリスマス礼拝は12月25日に行う。個人的には、今年は砧教会2020年6月7日問題が未解決な中、悲しみのクリスマスだ。

C年だからルカ伝、今日はイエスの母マリアが妊娠中に親戚の洗礼者ヨハネの母エリサベトを尋ねるシーンだ。並行箇所はない。この場所の直前、ルカ伝1:36に「あなたの親類のエリサベト」という記述がある。マリアはユダ族、エリサベトはレビ族らしいので、どうして親類になるのかはよくわからない。ネット検索すると諸説ある。36節にも並行箇所はなく、事実はどうだったのかわからない。

ここで、福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 ルカ1・39-45

 39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

受胎告知はナザレ、ザカリア・エリサベトはエルサレム近傍にいたとすると、140km程度の距離がある。「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」は、まだ妊娠初期にでかけて3ヶ月を過ごし安定期になって戻ったと考えられなくもない。

生誕物語に関わるエピソードはクリスマスイベントとして子供の頃から繰り返し経験しているので多少疑問があっても、まあそんなものかと考えることにしていたが、改めて調べながら読むと納得がいかない。マルコ伝に記述がなく、マタイ伝、ルカ伝もほとんど並行していないので、事実が見えてこない。

福音のヒント(2)で

カトリック教会で伝統的に唱えられてきた「アヴェ・マリアAve Maria」の祈りの前半は、ルカ1章28節の天使の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、この42節のエリサベトの言葉から採られています。今もわたしたちはエリサベトの言葉を借りて、マリアとイエスをたたえているのです

と書かれているが、この「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」は印象に残る。受胎告知は天使の宣言だが、こちらは人間による追認である。人の世界で認められると安心感は高まるだろう。神や天使を受け入れていたとしても、やはり人間ではない別の世界の存在である。イエスの誕生は、別の世界の存在が人間として生きる不思議な物語の始まりであり、マリアは入り口であの世とこの世を結ぶ存在である。どれだけ孤独だっただろうか。エリサベトの許容はマリアにとっては救いだっただろう。異世界が接してイエスが生まれ、十字架にかけられて人間イエスは死ぬ。そして復活し昇天する段階で再び異世界とこの世がつながるが、そのつながりは切れない。再び来るということが何を意味するのかはわからない。

福音のヒント(4)の「この2人の出会いの中に、「教会」の根本的なイメージを感じ取る」はとても興味深い主張だと思った。神を信じる経験はひとりひとり違うのだ。神が働く体験を信じたものに理解を示すということに教会の規範を求めるのは、この世の救いとなる。

すべての人は主人公で、すべての人が誰とも違わないただの人間だ。違いがあっても人として認めてともに生きることを愛と呼んでも良いだろう。エリサベトの愛はマリアを支えてイエスの誕生を助けたと読んでもよいのだと思う。すべての人は主人公だが、すべての人が脇役だ。

※画像は2週間前に訪問したエストニア・タリンのメソジスト教会。知らない異邦人だから受け入れやすい面も、入りやすい面もある。知ってしまうと躊躇が生まれることもある。