新生活83週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」

hagi2022/04/24(日) - 07:51 に投稿
St. Thomas, from Rubens' Twelve Apostles Series.

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第2主日 (2022/4/24 ヨハネ20章19-31節)」。

福音のヒントの教会暦と聖書の流れには以下のように書かれている

復活節各主日の福音のテーマは次のように捉えることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空(から)の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「復活したイエスは目に見ることはできないが、今もわたしたちとともにいてくださる」とはどういうことかを示すヨハネ福音書の箇所。

キリストの昇天は復活の40日後とされているので、第6主日までは昇天前。昇天の10日後がペンテコステとなる。使徒行伝1:3には「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とある。

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

福音のヒント(1)には「復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません」と書かれている。墓からどう出たのかも良く分からないが、この40日間は物理的な体が残っている。残っているが物理法則には従っていない。何が事実で何が虚構なのかは分からない。

24節からのトマスの話はとても興味深い。小学生の時に教会学校でトマスの話を学んだが「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」のインパクトが強く、疑わないのが正しいと思った。でも、おかしいと思ったことをおかしいと言っていけないわけではない。トマスの行動は細かくは書かれていないが、実際に確かめたのではないかと考える。そして、トマスは自分の五感で物理的なイエスの存在を確かめたから、自信をもってイエスは死んでいたが、生きていたと告白できただろう。イエスに嫌われたくはないから疑義を示すことは勇気がいる。彼には勇気があった。

検証して信じた人は、もっと強い経験をすれば気が変わるだろう。見ないのに信じる人は盲信で、それが揺るぎないものであれば危険な関係の始まりとなる。

使徒行伝の「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」が事実だとすると、その間の弟子たちの実体験はイエスは復活したと確信するのに十分な時間だったのだと思う。1回あっただけでも強烈な印象は残るだろうが、共に食事をするなどの体験は心に定着するだろう。

22節の「聖霊を受けなさい。」という記述が気になる。ペンテコステの話は強烈なのだが、この箇所では聖霊が弟子たちに宿ったというようには見えない。まだほぼ100%昇天前のイエスに留まっているように見える。ただ「聖霊を受けなさい。」という言葉は弟子たちの心に残ったのだろう。ペンテコステの体験の時に覚醒、自覚したのではないだろうか。

この聖書箇所の何が事実で何が虚構なのかは分からない。マルコ伝では「16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」とある。タイミングから考えるとヨハネ伝の記事はガリラヤではなくエルサレム近郊の話で、話が合わない。それでも、弟子たちがペンテコステ前にイエスの復活を体感した事実はあるように思われてならない。物理的な形状がどうだったのかは分からないが、復活後に共に過ごした時期があった。その経験があるからこそ殉教にも耐えられたのではないかと思う。

英語版のWikipediaによれば、トマスはインドに伝道したとされている。事実であれば、とんでもないエネルギーだ。復活に関するよほどの信仰がなければありえなかっただろう。ギリシャやローマへの道は当時の世界の中心に向かう道だったが、インドへの道は辺境への道だ。一緒に過ごした体験と聖霊の働きはあったのだろう。

疑いはもって良いのだ。神やイエスや聖霊に疑いを持っている時、人は三位一体の神に向かい合っている。向かい合っていればイエスは時を見てやってくる。時は待たねばならないが、必ず道は示され、進むために必要なものは整えられると信じている。イエスが来るのは受洗時一度きりとは限らない。日々来ていることを感じられる人もいるだろうし、来ていることをいつも疑う人もいるだろう。私は黙示録3:20「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」を想起する。トマスは疑い深かったが、心の扉を開けてイエスを迎え入れ、多くの人に福音を伝える人に変えられたのだろう。

ルーベンスの12使徒から引用させていただいたトマスの絵