新生活82週目 - 「復活する」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活の主日・復活徹夜祭(2022/4/17 ルカ24章1-12節)」。今週はイースター。砧教会の牧師と書記を相手取った訴訟が進行中のため、しばしば夜中に目が覚める日が続いている。いずれにしろ、やがて第三者による事実評価が進むだろうから、もうしばらくの辛抱だろう。果たして私の妄想だったのか、それとも不当な弾圧だったのか。私は、事実がどうであったが知りたい。多くの人の心を乱すことは心苦しいが、やはり事実がどうであったかは明らかにせずにおられない。

暦から見ると、現代の木曜日の日没が当時の金曜日のスタート。金曜日の日中に処刑され、夕刻には埋葬され日没とともに安息日が始まる。土曜日の日没に安息日が明けて、日曜日の朝の話が今日の箇所だろう。

福音朗読 ルカ24・1-12

1週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

4福音書全てにこの記述がある。正式なマルコ伝ではこの記事が最後の記事で、イエスが現れる記述は追記扱いとなっている。墓は空だったということは揃って記録されている。各福音書に共通なのはマグダラのマリアが含まれていること。マタイ伝では到着した時に天使が(彼女の目の前で)墓の石を転がして中が見えるようになったがイエスがいなかったということになっている。他の福音書では到着時に既に墓は開いていた。到着前から墓が開いていたという記述だと、イエスが歩いて出ていったか、誰かが運び出したことを想起させるが、その場で墓が開かれたのであれば、物理法則に反して、イエスが密室を出たことになる。事実は、どうだったのだろうか。人間イエスの死体はどうなったのか。何らかの理由で蒸発したのだろうか。何らかの現実はあったはずだ。輝く衣を着た二人は何者なのかもわからない。福音のヒント(1)では「明らかに天使です」と書かれていて、信徒がそう解釈するのは自然だとしても不思議すぎる。「1.日曜日の朝、墓は開いていてイエスの死体はなかった。2.マグダラのマリアはそれを弟子たちに証言するとともに復活の予言に言及した。」は事実なのではないかと思う。

以降の記事で、弟子が復活のイエスに気付くことができなかったものがあることから、生きている復活の主イエスと生きていた人間イエスには違う存在に感じられる。しかし、復活のイエスをイエスとして信じたところから今の教会が始まっている。福音のヒント(2)にあるように天使がはっきりとイエスの復活を告げたように福音書には書かれているが、そのような事実があったかは疑わしいと感じる。あったかも知れないし、無かったかも知れない。ただ、処刑された後になっても多くの人の心が動いたのは否定できない事実だろう。福音のヒント(3)で11節の「たわ言のように思われた」という記述に触れているが、どう考えても使徒がそう思うほうが自然だ。ルカ伝では、それでもペトロは自分の目で確かめに行って、イエスの死体がないことを確認したとあり、マルコ伝では、マグダラのマリアは誰にも報告しなかったとなっている。報告してもしなくても何らかの事実はある。マタイ伝にある夜が明ける前に死体が運び出されたという話の方が事実かも知れない。イエスの死体はどうなったのかは、未解決課題である。いつか何か発見があるかも知れない。

福音のヒント(4)の「イエスのおっしゃったことは過去のことになってはいない。その言葉は今もわたしたちの中に生きていて、働いている」は本質的だと思う。イエスの活動は処刑によって、死によって終わらない、終わらずにずっと続くというのが信仰の本質と言って良いだろう。現実が厳しくても真実を求めて日々生きていくことしかできることはないし、よりよい社会の実現を願うことしかできることはない。もちろん、足元を大事にできればそれに越したことはない。

後日弟子たちが発する言葉の多くは実現しなかったし、教会も神父や牧師も腐敗から免れられない。東方教会の重鎮が虐殺を正義としたりするのも現実である。そういう時、少なくない個人は、偉い人や組織への依存心に覚醒して直接神の声を聞こうとする。もし声が聞こえたとしてもそれが本物かどうかはわからない。今の私は、事実に向き合った判断になっているかと、その判断が排斥に向かっていないかを基準としている。

※冒頭の写真はシャガールのイースター(Easter, 1968 - by Marc Chagall)でhttps://www.marcchagall.net/easter.jspからTerm of Useに基づいて、自己責任で引用させていただいたもの。昔訪問したことがあるニースのシャガール美術館に所蔵されている絵だが見た記憶は残っていない。シャガールは、ユダヤ系で現ベラルーシの出身。迫害を受けた経験がある。彼には、どのような世界が見えていたのだろうか、Les Pâques(イースター)と名のついた暗いトーンの絵に何を描いたのだろうかと考える。現実は厳しいが、光がさしているという描写のようにも見える。