新生活38週目 - 「成長する種」のたとえ~「からし種」のたとえ

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第11主日 (2021/6/13 マルコ4章26-34節)」。

福音のヒントの書き出しで、「マルコ福音書では、この4章にイエスの語ったさまざまなたとえ話が集められています」とある。ガリラヤでの説教が集められたものと考えられる。4章の冒頭は『「種を蒔く人」のたとえ』でマタイ伝では13章。12歳で自由学園男子部普通科に入った時、朝の礼拝で繰り返し聞いた箇所だ。多分、毎年春には中学1年生を念頭に置いて各教師から話されていたように思う。私は、公立小学校の中学年頃から砧教会の教会学校に通っていたので、「種を蒔く人」のたとえ以外もだいたい何度かは聞いていたけれど、普通科の時の印象が強い。洗礼を受けたのは19歳の時だが、12歳当時は既に「気分は信者」だった。信仰告白と洗礼にどんな意味があるかはほとんど考えていなかったと思う。単なるルールの一つだと思っていた。

今日の聖書箇所は、たとえ話集の後半、26節から34節。

「成長する種」のたとえ
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
「からし種」のたとえ
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
たとえを用いて語る
33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

今回の福音のヒントでは、個々のたとえに対する解釈は述べられていない。「たとえ」だから、どの箇所にもいろいろな解釈が成り立ち、わかりやすい解釈からひねった深読みもある。どれも良いのだろう。最初の「成長する種」のたとえであれば、「人が土に種を蒔いて」を「誰かがたとえの解釈を説いて」と取っても良い。たまたま、耳が開いている瞬間に福音のメッセージが与えられるといつのまにかその人に定着し、メッセージを送った人の意思にも努力にも関わりなく育って実を結ぶと考えるのも一案だ。教会学校やキリスト教主義の学校は種を蒔く。どう育つかはわからない。最初の「種を蒔く人」のたとえには、「種を蒔く人」のたとえの説明がついている。一見わかりやすい解釈なのだが、何度も読むと決して自明ではない。たとえの説明にも複数の解釈の余地がある。芽を出すというタイミングを信仰告白におく考え方もあるだろう。目を出したからといってそのまま育つとは限らない。何があるかは誰にも分からない。神父や牧師であっても決して安泰ではない。

今日の最後の部分に「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と書かれているが、他の箇所とつきあわせて考えると、すべてを説明された弟子たちにもその言葉はその時点では届いていない。果たして、その後全ての弟子でその言葉が育っただろうか。少なくともユダは裏切り者になったと書かれている。もちろん、私自身も常にそのリスクにさらされていると考えるべきだ。自分は特別だと思った時に転落が始まるのだと思っている。

福音のヒント(1)で、私には衝撃的な事が書かれていたので、長いがそのまま引用させていただく。

ヨアキム・エレミアス(1900-1979)という聖書学者は、イエスのたとえ話は本来すべて「福音の弁明」であると考えました (A年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。イエスのたとえ話は抽象的、一般的な教えを述べるためではなく、ある特定の状況の中で、イエスに対する批判や疑問に答えるために語られたというのです。イエスに対する批判に答えるためにたとえ話が語られた典型的な例としては、有名なルカ福音書15章があります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」(1-3節)。こうしてイエスは「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」という3つのたとえ話を語ります。これらのたとえ話は、イエスがご自分の行動の意味を解き明かし、何が神のみ旨にかなうことであるかとはっきりと示すためのものです。

福音の弁明という考え方は面白い。現実世界に普遍的な正義は存在しない。誰かの正義はしばしば誰かにとっては弾圧となる。ナショナリズムや民族主義、宗教裁判も正義はしばしば人を殺す。例えば、安息日に人を救って何が悪いというメッセージは良心を揺さぶる。ルールを守るより優先すべきことがあると感じる心は恐らく普遍的なものだろう。行為や言明は常に糾弾の対象になりえる。沈黙は金と言われるとおり、黙っていれば叩かれない可能性が高い。一方、リスクを恐れていれば改善のサイクルも回らない。他人と異なる行動を取る人がいるから時代は動いていく。福音の弁明という視点に立つと、個々の判断は、その判断の大本に戻って考えた時、複数の適切で相反する選択肢があり、評価時間軸を短く取るか長く取るかで是非もかわるから、たとえで語るのが個々の問に答えるより適切な対処になると言える。

もちろん、法は重要である。殺し合いになるよりは、ルールで合意して人死が減らせたほうが良い。実際、ルールが成熟してきたことで差別が違法化され、人権が守られるようになってきている。短期では力で支配できても、長期では合理的なルールのほうが福祉に貢献する。だから、ルールは整備され、そのルールが効力を発揮できるような社会システムの構築は望ましいことだ。一方で、ルールには硬直性が伴う。例えば、安息日に人を救って死刑になるケースだ。陪審員制度で回避しようという考え方もあるが、陪審員制度を悪用するケースが出てきて問題が解決されることはない。

神の国はからし種のようなものであるという教えは示唆に富む。根底に愛を定着させよ、真の愛に基づいた行動は必ず実を結ぶがそれが真の愛かどうかは自分では分からない。それは神に聞けということになる。神に聞き続けるというプロセスを守ることでルールの限界を越えられるというメッセージと受け取ることが可能になる。たとえだから、解釈は自由なのだ。

福音のヒント(4)で、『「たとえ話」は常識的には、物事を分かりやすく伝えるために語られる』とあるが、聞き手に解釈の余地を与えるために「たてえ話」を用いることが有効なケースはあると思う。「確かに神の国と言っても今は吹けば飛ぶような小さな現実にしか見えないかもしれない。しかしそれは種なのだ。種が本物で生きていれば、いつかそれは必ず大きなものへの成長していき、大きな実りがもたらされる」と思うことが信仰だし、たくさん回り道をしてきたけれど、2,000年分成長してきていると思っている。同じ信仰を持っていても意見の違いは埋まらないことはある。それでも前を向いて、神の声を耳を澄まして聞いて、歩いていくのが良いのだろう。

※画像はwikimediaからThomas Francis Dicksee: Christ of the Cornfield "And he said unto them, The Sabbath was made for man, And not man for the Sabbath." Mark, II, 27.