ふと、「キリスト者は...」と「私たちキリスト者は...」という表現の違いに引っかかった。後者の表現は差別的だと感じたのだ。立場のある人が「私たち」という言葉を前につけると、私たちはInで、私たちでない人たちはOutという意味を含んでしまう。他意はないのかもしれない。ただ、In/Outは明日どうなるかはわからないのだ。
キリスト者はという言葉を日本人と置き換えてみると、「日本人は...」と「私たち日本人は...」はどう違うだろうか?
日本人はという表現を使う時は、内側から見る場合と外側から見る場合で意味が変わる。外から見る場合はブランドイメージを含めて、すげーとかダメだとか先入観を生む。大谷すげー、そういえば松井もイチローもすごかった。日本人ってすげーぞという話になったり、まあ日本人は英語など通じないし黄色くて小さくて大したことはないと小馬鹿にする人もいる。実際には、様々な人がいて、日本人だからすごいわけでもないし、日本人だからダメなわけでもない。
一方「私たち日本人は...」という表現を使う時は、内側からの視点となる。「日本人として」という表現に至ると、暗黙の規範に左右される。日本人であるからにはXXであるべきだとかあらねばならないなどというナショナリスティックな無言な圧力になることが少なくない。同時に「私たち日本人は...」と表現するときには、日本人の要件が問われることとなる。大坂や八村は明らかにすごいが、彼らを正規の日本人と認めない「日本人」は存在する。あるいは、都合の良いときだけ日本人とみなすような言動はしばしば見られる。個を見る力が失われるのだ。
じゃあ、日本人とは何なのか、キリスト者とは何なのかと問えば、一貫して通用するような解はない。それは人工的な区別あるいは差別でしかありえないのである。
最近になって性スペクトラムという概念が提唱されるようになり、男女という二元論で議論できないことが統計的にも検証されるようになった。男性はどうあるべきというのは抽象的なのでいろいろな考えがあっても良いと思うが、「私たち男性は...」というと男性と男性でないもの(かつては女性)を区別して扱わなければいけないので、どこかで線を引かなければいけなくなる。測る物差しによってある人が男性か女性かあるいはどちらでもないか、どちらでもあるかは変わるのに、純粋な男性とは何かという議論に陥ってしまう。言い換えれば、直線的序列が生まれるのだ。
キリスト者はこうあるべきだと説教する時、それは基本的に原典(聖書)に根拠を置く。実際には矛盾だらけなのだが、そのエッセンスを汲み取って進むべき道を示す。かつて様々な問題も起こしてきたが、2,000年経過してもなお一定の支持を得ているのだから異論があるのは承知の上でまあ良いとしても良いだろう。一方「私たち」が頭につくとIn/Outを明確化しなければいけない。プロテスタントだと一般的には信仰告白をして受洗することでInかOutかが決まる。そんな区分は実際には何の意味もない。Inの中央に近いと思われる人が明らかな犯罪者である事例もある。だから、私は「私たち...」で語る人を眉に唾をつけてみることにしている。宗教で言えば、実際には犯罪者も含まれる聖職者をピラミッドの上位に位置づける差別主義者だと思うからだ。常に検証し続けられる組織(第三者監査に耐え得る組織)でなければ、持続性は無いだろう。
私は「あんな人たちに負けるわけにはいかないんです」などと発言するような人は信じたくない。「あんな人たち」という属性に完全一致する人間など存在しない。単にIn/Outを分けて、こっちの水は甘いぞと主張しているに過ぎない。コミュニティは全て幻想に過ぎない。そして、人間は一人で生きていくのは難しいのである。
人生は学習だと思う。探求に終わりはなく、チャンスも罠も無限にある。