差別を学ぶ

障碍も性自認もパーソナリティの一部と考えることができないと、Diversity and Inclusionもアクセシビリティも強者による弱者への憐れみと位置づけられてしまう。それは差別そのものなのだ。恥ずかしながら、私の中でまだ憐れみという感覚が残っていることに気付かされた。

久しぶりに砧教会の会堂礼拝に参加した

リアル会堂礼拝にはオンラインで得られない体験が確かにある。集まっているという感覚があり、共にいるという喜びはある。牧師と対立関係にあっても、自分に嘘をつくことはできないし、逆に自分の誠実性に自信を持っているので、堂々と出席した。場を緊張させるのは申し訳ないと思うが、真実をごまかすわけにはいかない。

新生活126週目 - 「復讐してはならない、敵を愛しなさい」

画像
folio 51 recto with passage from the Gospel of Mathew
敵を愛せという教えは、それだけを取り出すと無理がある。ウクライナの人が今攻めてきているロシアの兵士を愛することは無理だ。しかし、捕虜を公平に扱うことはできる。自分が愛する人のために不正をしてはいけないし、自分が愛することのできない人だからといって不正な扱いをしてよいということはない。