新生活152週目 - 「カナンの女の信仰」

hagi に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第20主日 (2023/8/20 マタイ15章21-28節)」。マルコ伝7章に並行箇所がある。マルコ伝7章は2021年の8月から9月にかけて触れられていたが、この話の部分は飛ばされていた。

福音朗読 マタイ15・21-28

 21〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という言葉に違和感を覚える人は少なくないだろう。マルコ伝では「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」となっている。

私はユダヤ人ではないから異邦人であり、救済の順序では劣後することになる。あまり気持ちの良いものではない。人間イエスは異邦人のことをどう考えていたのだろうか。

福音のヒント(3)でその解釈が述べられているが、「イエスがまず身近な人々を優先すべきだと考えた」も「イスラエルの民が神のことばと神の約束を受けていた民だから」もしっくりこない。そういう解釈は成り立つだろうが、むしろ福音のヒント(2)にあるように、マタイ伝の著者、想定読者の常識に引きずられていると考えたほうが理解しやすい。その時代と地域の常識から自由にはなれない。イエスも人間である以上、制約を受けていただろう。いや、むしろ、自分が接する人々の常識を塗り替えられる範囲に限界があったと考えるべきかも知れない。この話が事実であれば、イエスは異邦人に対しても奇跡を行ったことになる。彼の娘が救われたのは、神の恵みが異邦人にも及ぶことが明らかになるためであったという解釈もあるだろう。

カナンの女の信仰が特別なものだったかについては疑問がある。この話を読む限り、娘に対する愛情は深い。娘の病気が治ることを強く望んでいたのは間違いないだろう。恐らく、イエスに限らず問題を解決することができる可能性があれば、誰かにより頼むことに躊躇いはなく、何でも挑戦したのではないだろうか。彼女は運良くイエスに出会い、問題は解決したが、詐欺師にあって悲惨な目にあっていたかも知れない。現代でも、不幸につけ込む詐欺行為はいくらでもあるが、当時も同じような状況だったと思われる。カナンの女は本当に運が良かったのだと思うのが妥当だ。

それでも、この話は福音(良い知らせ)だと思う。

事実として、異邦人に救いが及んでいるわけだから、異邦人である私にもその恵みはもたらされる可能性があると思うことができるようになる。

イエスの師匠だった洗礼者ヨハネは「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」と言っている。血筋に頼ってはいけないという考えは時代の常識のバリアントとして受けいられる余地はあったのだろう。現実には良い血筋は有利に働く。例外があるとしても、十分に諦める理由にすることができる。異邦人という属性は本人が何かをあきらめるには十分な理由になり、他人をあきらめさせるには十分な理由となると考えられていたことがわかる。そういった自分の属性で諦めるのが常識だったとしても、必要と思うことを願い追求する権利は誰にでもあり、そして属性に関わらずそれがかなうことはある。求めなければ始まらないのである。

その人が置かれている常識が現実だとしても、自分が良いと思うことは願って良い。そして、ほとんどの場合、求めなければ何も変わらない。求めても、詐欺師に会うかも知れない。既得権益を失うかも知れない。それでも、良いと思うことを願い求めて良いとイエスは言っているのだと思う。

福音のヒント(6)は「きょうの福音の箇所はすべての人との平和を願うわたしたちにとって大きな光を与えてくれるはずです。」と結んでいる。「すべての人との平和を願う」ことが容易なことだと思わないし、どう努力してもこの人との平和を願うことはできないというケースはある。「すべての人との平和を願う」は無理ゲーで、わたしたちが「すべての人との平和を願う」を行動に移せる範囲は限られている。聖職者が「すべての人との平和を願う」を自分たちの基本的姿勢だと思わせようとしても現実にはあわない。それでも、それを言うことには意味がある。仮に牧師が事実を曲げて誰かを排除し不幸の元となるとしても、綺麗事を言わないよりは言ったほうがマシだろう。それでも彼が犯した罪は消えることはなく、生きているうちかどうかはわからないが、いつかは清算しなければいけない。それは聖職者に限らない。全ての人が罪を負って生きているが、良いと思うことを願い求めて、それを行動に移して良いのである。行動を起こせば間違いも犯す。それでも、隠して置くのでなく行動に移すことが奨励されていると思わせる聖書箇所は少なくない。

やや、辛い解釈となるが、自分のおかれている環境に関わらず、行動を起こすのが望ましいという教えと受け取って良いだろう。

※冒頭の画像はWikimediaから引用したミケランジェロのイエスとカナンの女の絵。左側にいるのは弟子たちだろう。カナンの女を排除しようとしていたわけだから、彼らは罪を犯していることになる。彼らはイエスの行動に驚くとともに自分たちの無理解を恥じることになった。自分が犯している罪をそれと自覚するのは難しい。