キリスト教

新生活313週目 - 『「ぶどう園の労働者」のたとえ』

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Christus im Hause des Pharisäers Jacopo Tintoretto
朝から働いても、夕方にちょっと働いても報酬が同じなら、真面目に努力するなんてバカバカしいと思う人もいるかも知れないが、一定レベルの倫理観は保たれているという信頼があることなしには社会は成立し得ない

新生活311週目 - 「兄弟の忠告」

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Rembrandt: Moses Smashing the Tablets of the Law
第二朗読の「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」と福音朗読の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」に関連性を感じている。その二人または三人が隣人の始まりと言って良いだろう

新生活309週目 - 「ペトロ、信仰を言い表す」

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Woodcut of the Augsburg Confession, Article VII, "Of the Church"
かつて私は「この岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉を単純に信じた。その言葉はあったかも知れないし、なかったかも知れない。ローマ・カトリックはそれを原則として成り立っていて、しかもその正統性を独占しているように見える。カトリック教会はかなり腐敗したり、危うくなった時期もある。権威の独占に溺れたと考えて良いだろう。共観福音書が複数あるように解釈は複数あってよいのだろう。伝統に奢らず真実を追求し続けたら良いと思う

新生活308週目 - 「カナンの女の信仰」

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Willem van Oordt - Een Kanaänitische vrouw smeekt Jezus haar dochter te genezen (Matteüs 15-21-28), Marcus 7-24-30)
マタイ伝では「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と弟子たちがうるさがっているが、福音のヒント(2)でも「実は22-25節のやりとりはマルコ福音書の平行箇所にありません」とあるようにマルコ伝では同様の記述はない。弟子たちのイエスへの気遣いはある意味で醜い

新生活307週目 - 「湖の上を歩く」

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Jesus walking on water. Armenian manuscript. Daniel of Uranc gospel.
ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」は並行個所にはないが、この話は本当にあったかも知れないと思っている。重要視しているのはペトロが希望したという点である。善いことを実現するにも一定の能力が必要となる。ペトロはそういう能力を獲得したいと願っただろう。水の上に一歩を進め、助けを得たとはいえ沈まずにすんだのは素晴らしいことだ

新生活305週目 - 「「天の国」のたとえ〜天の国のことを学んだ学者」

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Depiction of the Treasure in the field and the Pearl of great price. Photograph of stained glass window at Scots' Church, Melbourne.
Wikipediaの解説を読んでいると、グノーシス主義に関する言及が出てくる。たしかに、天啓に頼って悟りを開くというという匂いがするが、荒野の誘惑のシーンにも同じ匂いがするから、異端的な記述とするほどではないだろう。悟りを強く意識しすぎると危ういから、気をつけなければいけないが、常人には気づくことができない宝を探すという行為が駄目なわけではない。「罪の自覚と不断の悔い改め」とセットで考えなければいけない