新生活308週目 - 「カナンの女の信仰」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第20主日 (2026/8/16 マタイ15章21-28節)」。3年前の記事がある。マルコ伝7章に並行個所がある。英語版WikipediaにはExorcism of the Syrophoenician woman's daughterという記事がある。

福音朗読 マタイ15・21-28

 21〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。


マタイ伝では、カナンの女、並行個所のマルコ伝では、シリア・フェニキアの生まれのギリシャ人とある。違いが分からないが、個人的なイメージととしては、エジプトから北上したのがカナンの地、ティルスとシドンの地はさらに北方の現在のレバノンからシリアの地という印象がある。ギリシャはさらに遠方。言語は語族的にはイエスのアラム語と同じなので、会話は成立したのかも知れない。マタイ伝は、ユダヤ色が強いので、ユダヤ人が征服した被支配者の(差別対象となる)女という感じなのかも知れない。マルコ伝は、ギリシャ人として書いているので、より遠方感があって関係の薄い人という感じがする。この違いはニュアンスとしては大きいと思う。

日本での感覚では、マタイ伝が在日韓国人の女、マルコ伝がクルドの女といった感じかも知れない。先入観を排せば同じ人間なのだが、物語として読めばかなり印象は変わるだろう。マタイ伝では「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」となり、マルコ伝では「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」となる。マタイ伝の被差別者に立派だというのは上から目線で、マルコ伝は関係は薄くても恵みは及ぶという感じ。日本人から見ると、差別被差別の対象とならないような遠方の民であっても、信仰があれば救いはもたらされると読むことがができる。この感覚的な違いは結構本質的なのではないかと思う。

マタイ伝的な選民思想に自分をおくと聖書の教えは共感しやすいのだが、それを契機に少し考えを進めれば、中華思想の向こうに平和がないことが分かってくる。この個所のルカ伝の並行個所はないが、ルカ伝はギリシャ人視点が強い。つまりエルサレムを外から見ているのだ。ただ、別の中華思想が垣間見える。エルサレムの主流派には見えてないことは私には(私たちには)見えるという印象が強い。マイノリティ感と誇りが同時に感じられる。どちらも不完全だと思う。共観福音書が3巻あることの良さだろう。

もう一点述べると、マタイ伝では「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と弟子たちがうるさがっているが、福音のヒント(2)でも「実は22-25節のやりとりはマルコ福音書の平行箇所にありません」とあるようにマルコ伝では同様の記述はない(存在がバレてしまったとう記述はある)。福音のヒントでは、「ユダヤ人キリスト者の共同体だったマタイの教会の中には異邦人排除の考え方があり、マタイはそのような考えをここで紹介しながら、イエスご自身がその枠を乗り越えていったのだ、と言いたいのかもしれません」と解釈しているがこれは無理筋だと思う。ただ、私もイエスはマタイ伝のようには言っていないだろうと思うので、そういう解説をつけるのには好感する。多分、マタイ伝の教会は自分たちが差別的であることに気がつけていないのではないかと思う。教会の外に出て人の話を注意深く聞かないと差別的であることに気が付けないのは現代の教会でも同様だろう。属する教会を誇りに思った時点で既に差別的なのだ。例えば、聖餐式で、洗礼の有無を問うのは私は差別的だと思う。日本基督教団ではそういうルールになっているという説明をすれば十分だろう。牧師は按手礼を受けているから、ルールに従わないわけにはいかないだろう。浅野牧師はルールに重きをおいてはいなかった。それが良いという意見もあるだろうし、そうではないという意見もある。私は、ルールなら守っておいたほうが良いだろうと思うが、どうしても守らなければいけないとは考えていない。誰であれ、自分の判断については、自分で責任を負わなければいけない。

※画像はWillem van Oordt - Een Kanaänitische vrouw smeekt Jezus haar dochter te genezen (Matteüs 15-21-28), Marcus 7-24-30)