今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第23主日 (2026/9/6 マタイ18章15-20節) 」。3年前の記事がある。新約聖書に並行個所はないが、BSBとKJBでは申命記19章が引用箇所となっている。
第二朗読 ローマ13・8-10
8〔皆さん、〕互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
福音朗読 マタイ18・15-20
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
3年前の記事は深刻だ。今も、その主張は変わっていない。どうすれば、腐ってしまった砧教会は正常化できるのだろうかと今も考えている。時間が経過すれば、当事者は全員死ぬ。既に金井美彦は砧教会を去った。この世的にはそれで終わるのかも知れないが、私はそれで終わるとは思っていない。この世に存在する間に正常化できるに越したことはないと思っている。
今日の箇所について福音のヒント(1)では「イエスは「教会」についての教えを語ったのでしょうか。むしろ、マタイが自分たちの教会のあり方を考えるために、伝えられてきたイエスの言葉を(多少、加筆修正しながら)ここに集めたのだと考えるほうがよいのでしょう。」とある。その考え方を支持する。並行個所もなく、イエスは教会について語っていないかも知れないが、互いに愛し合いなさいとは言っただろう。その言葉は群れを作るから、教会が形成される原点となっただろう。マタイ伝の「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」は権威の移転で、私はどうもしっくりこない。教会も腐ることがあるし、牧師や神父も腐ることはある。傷んでも回復することはあるし、傷んだまま滅びてしまうこともある。
第二朗読の「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」と福音朗読の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」に関連性を感じている。その二人または三人が隣人の始まりと言って良いだろう。人間同士には好き嫌いがあるが、「わたしの名によって集まる」関係は、好き嫌いとは関係ない。
キリスト教の教会は、もともとはシナゴーグ(英語版Wikipedia)でモーセ五書を置いている集会所でWikipediaに従えば「ユダヤ人のグループなら誰でもシナゴーグを建てることができます(Google訳)」とあり、もともとあったシナゴーグでイエスの教えに学ぼうとしたシナゴーグが生まれていき、やがてユダヤ教を古い教えとして正しい解釈はイエスの解釈に求める姿勢を明確にしたところもあっただろう。パウロ(サウロ)は、そういう集会を異端として弾圧していたと考えられる。「兄弟があなたに対して罪を犯した」は、回心前のパウロはキリスト教会員は主流派に反する教えを広めているという罪を犯していると解釈したことになる。コミュニティはLike minded peopleの集まるところという考え方があり、価値基準の近しい人の集まりと言っても良いだろう。そのコミュニティの主流派が支持する価値に反していれば、排除の対象となるわけだが、主流派が常に正しいわけではない。
十戒はユダヤ教でもキリスト教でも基本法と言って良い。イエスも十戒を否定していない。
ある人が、事業の失敗原因として「こだわることをやめて、縛られることを選んでしまったからなのかもしれない」という意見を表明していたが、イエスのユダヤ教解釈もそれに似ていると思う。旧約聖書には判例法の側面があり、イエスはユダヤ教が旧約聖書の価値判断に縛られてしまったことを批判している。個々のケースに合わなくても、時代の変化にあわなくても確立されたルールに固執してしまえばやがて破綻する。今日の第二朗読でパウロが「愛は律法を全うするもの」と書いているのは、十戒にこだわるということは十戒が何を導くかを考え続けるということで旧約聖書の文面を深く読み込むのは良いが、その文面に過度に縛られずに本質にこだわれということだろう。十戒の本質は隣人愛だとの確信が彼の回心の中核だったのだと思う。
出エジプト記20:4(十戒)には「あなたはいかなる像も造ってはならない」とある。パウロは自分のことも人間イエスすらも偶像化してはいけないというような主張をしている。ある意味で十戒へのこだわりと言うこともできよう。イエスはこう言ったという言行録に縛られてはいけないということだ。
教会あるいは教団に過度の権力を持たせてはいけない。それに支配されてはいけない。
一人の力には限界があるから集団で力をあわせ効果を出していくことには大きな意味がある。金がなければ神学研究もできないし、社会変革も生み出すことは困難だ。群れることは悪ではない。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という発言は実際にあっただろう。十戒あるいはその本質にこだわりをもって力を合わせようとしていれば、イエスは関わりを持つという宣言である。価値観が完全に一致することなどありえないし、いままで誰もが正しいと思っていたことでも間違っていたことが判明することもある。もちろん、自分が正しいと思っていたことが間違っていたことを思い知らされることも多々ある。特に上手く行かない時は、過去の自分の言動に縛られることなく本来目指しているものがなんだったのかに戻ってこだわり抜くのが良いのだろう。
改めて「隣人を自分のように愛しなさい」を意識したい。
※画像はWikipedia経由のRembrandt: Moses Smashing the Tablets of the Law。