新生活312週目 - 『「仲間を赦さない家来」のたとえ』

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第24主日 (2026/9/13 マタイ18章21-35節) 」。3年前の記事がある。福音書に並行個所はない。WikipediaにはParable of the Unforgiving Servantという記事があると3年前に書いている。

福音朗読 マタイ18・21-35

 21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


BSBやKJVではロマ書12:14-21との関連が記載されている。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」から始まる個所だ。新共同訳では「キリスト教的生活の規範」という見出しがついている個所に含まれている。

ちなみに、マタイ伝18:28で借金と訳されている言葉はὀφείλεις。この言葉はルカ伝11:4の主の祈りの罪という言葉と同じ。マタイ伝主の祈りの6:12ではὀφειλήματαという言葉で似ているが別の単語。BSBではルカ伝ではsin、マタイ伝ではdebtsと訳している。マタイ伝の新共同訳は「わたしたちの負い目を赦して下さい」と訳されていて、ルカ伝は「わたしたちの罪を赦して下さい」となっている。日本語で罪と借金が同義とは感じられない。聖書の記述だと、どうも借金の大きさと罪の大きさが比例するように読めてくる。罪に対する罰は、罪を金に評価替えして罰はその支払を強制する形。この個所だと、主人に対する借金が罪で、返済の強制が罰。違和感がある。

Parable of the Unforgiving Servantのローマ時代の記述を見ると、借金が返せないと奴隷化が法的に許容されていたようなので、現在の司法より極めて厳しい。借金を許すということは、奴隷化できる権利を持つ人がその権利を行使しないということだ。現在の日本では、基本的人権のレベルが上がり少なくとも表社会では一定の自由が奪われることはあるが、残酷なことは起きない。時代背景とともに、記事から感じられるメッセージは変わる。

旧約聖書の記述は、支配、被支配のコンテキストが強く意識させられる。マタイ伝の今日の箇所は神による絶対的支配を前提に、売り飛ばされないように思うなら、支配権を行使するなという教えと取れば良いだろう。そう説明しないと理解されないという側面はあったかも知れないが、イエスがどう言っていたかは容易に想像できない。

主の祈りでは、私がおぼえてきたプロテスタント訳では「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」。カトリックでは「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」。プロテスタントでは罪は人間間で起こすものという思想が強く出ているが、カトリックでは罪は神と人との関係という側面をより強く感じる。人間が罪をゆるすということはどういうことだろうか。借金を帳消しにしますというのは可能だが、人間間で起きる罪というのは、甲乙間で解釈が分かれるから、甲が罪をゆるしても、乙が罪がゆるされたと感じるかどうかは分からない。私は、犯してしまった罪(事実)は消えることはないという考えに立っている。罰は免除できる。罰がなければ、罪を犯し放題になってしまう。「我らがゆるすごとく」は罰の執行の秤を表すので、その同じ秤で評価して下さいと願っていることになる。

今日の個所で主人は一度帳消しにしているので、後段で返済を求める権利は本来はもう存在しないはず。しかし、現実には力関係で権利は蹂躙される。国家が強い権力を持つことで、人権を守れるようにしてきた結果、国家を恐れて力関係に基づく無茶な権利行使が抑制されるようになってきた。

一歩引いて考えれば、罪が減ればよいのは明らかだ。罪を犯されたと感じる機会を減らす制度設計とその実現が必要になる。国家の力や、教会の力で罪の発生を抑止しようというという努力の積み重ねの上で現代社会がある。しかし、制度に縛られることは不快さを伴う。奴隷制が廃止されたら、奴隷によって成り立っていた生活が成り立たなることはあるし、今まで合法だったことが違法になって困る人がいるだろう。マクロで見れば、それによって得られる恩恵は大きいが、個々の人びとにとってはもつ意味は違う。

今日の箇所では「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦す」ことが求められているが、愛が機能しないと心からの思いは出てこない。罪は憎まないと社会は良くならないが人を憎んでも社会が良くなることはない。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」に照らせば、この家来を迫害するものは主人である。家来は自分の罪を憎まなければ、の2人の間に平和は訪れることはない。それができれば家来と仲間の間にも平和が来るかも知れない。罪が減るためにそれぞれの人ができることはある。

前段で、恐らく合法的に「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済する」ように命じたという事は、制度に愛が足りなかったということでもある。罪を生み出しやすい制度は憎まないといけない。心から兄弟を赦すというのは、つきつめれば全ての人に平等に神から人権が与えられていると信じている心の状態を作るということではないだろうか。それでも、関係する人がそれをどう評価するかは自分でコントロールできるわけではない。個々の関係が改善することがなくても、神は見ていると考えることはできるし、微力でも制度の改善に関わることができないわけではない。

※画像はJan Sanders van Hemessen: The parable of the unmerciful servant (Matthew 18:23-35) から引用。登場人物は醜く見える。