今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第25主日(2026/9/20 マタイ20章1-16節)」。3年前の記事がある。福音書に並行個所はない。WikipediaにはParable of the Workers in the Vineyardという記事がある。
福音朗読 マタイ20・1-16
〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11それで、受け取ると、主人に不平を言った。12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
この個所の並行個所はないが、16節の「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉には、マルコ伝10:31(金持ちの男)、マタイ伝19:30(金持ちの青年)、ルカ伝13:30(狭い戸口)で同様の言葉が使われている。この言葉は、価値の逆転を示す簡潔な表現だ。とてもインパクトがある。
旧約聖書でもそういった記述はあるが、量的因果律が支配的だ。新約では1日仕えても、1秒仕えても報いは同じだったり、順序が逆転したりする。長年クリスチャンをやっていて、繰り返し今日の箇所を含めてこれらの4箇所を読み返しているから、もう違和感を感じることはないが、客観的に見れば、それは洗脳された結果だと見なすこともできる。これを現実的な社会ルールに当てはめたら、かなり危うい。実際、長く真面目にコツコツと働いた人が、ぽっと出で成果も出せていない新人と同じ報酬しかもらえなければ不満を感じないわけがない。新人も、その場は嬉しいだろうが、そんな会社だと、将来が不安だと考えるのも自然だ。ただ、現実でも、コツコツと真面目にやったからといってうまくいくとは限らない。環境が変わることもあるし、病気になることもある。しかし、コツコツと真面目にやること抜きで修得できないことがあるのも現実だ。
真面目に努力するなんてバカバカしいと思う人もいるかも知れないが、一定レベルの倫理観は保たれているという信頼があることなしには社会は成立し得ない。
他人の目とか、刑事罰の大きさとか、食うためとかの理由で生計を立てていれば、「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた」は合理的になる。自分の意志ではないからだ。ルールを守っている奴らは馬鹿だという行動を取る人が成功者に見えるようになると、何もやらずに生きていければ何と良いことだろうと考えてしまうかも知れない。そう考える人が増えれば、社会は崩壊していく。
福音のヒント(1)で、「「自分たちは神に忠実に生きてきた」と考えるファリサイ派は朝早くから働いた人」という解釈が書かれている。自分では、長く真面目にコツコツと働いてきたという自覚があるから評価されるのは当たり前だと考えるのは自然だ。しかし、愛の無い判例主義的な働きは、そもそも働いていることにならないというのがイエスの価値観で、俺達こそ貢献者だという慢心を糾弾する。改心した罪人の働きを認め、ファリサイ派より高く評価するというのは新約の倫理観を象徴するものだろう。愛の形だ。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」は、最後の瞬間までに改心すればそれでクリア、という話ではない。真面目にコツコツ努力することは当たり前のことであることに変わりはない。真面目にコツコツ努力しているという自分に溺れてはいけないということだと思う。他人と比較して、俺はマシだと考えたくなる誘惑は強力だが、いやそうじゃないという風に思える人が増えれば社会は安定に向かう。
何か、上手く行かないと思っている人に、それは外国人のせいだとか、ディープステートだなどと煽る人に騙されてはいけない。法執行組織に属する人やエリートは慢心してはいけないし、愛を忘れてはいけない。民主主義が機能している地域では、「分かりやすさ均衡」の罠に堕ちないように注意しなければいけないのだろう。
立派な大学で学んで、官僚になり登りつめてきたような人の仕事を、十分な知識や経験のない人が代替することはできない。トランプや安倍、高市のように作り上げてきたシステムを破壊すればその負の影響は甚大になる。一方、ファイリサイ派の人が陥った慢心と類似の誘惑に立派な大学で学んで、官僚になり登りつめてきたような人たちはさらされている。為すべきことを為すためには失脚しないようにしなければいけないし、独裁(富)を指向する政治家は、人事権を行使して邪魔をする。キリスト教的に言えば、「神と富とに仕えることはできない」ということだ。
現実では、神だけを選ぶことなどできはしない。倦まずに神に仕える比率を上げていく努力を続けるしか無いだろう。自分の倫理観は平均よりは上などと慢心してはいけない。慢心がなくても「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた」という不満は避けられないが、手抜きでない方法でもっと良い道を探していけばよいのだ。
※画像は、Jacopo Robustiのファリサイ派の家のキリスト。ファリサイ派の人が、罪ある女を見下しているシーンで、今も似たような現実はある。慢心とは、他人を自分とは違う世界の人と考えてしまうことを指す。差別は慢心。排他的保守は亡国。