今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第19主日 (2026/8/9 マタイ14章22-33節)」。3年前の記事がある。マルコ伝6章とヨハネ伝6章に並行個所がある。英語版WikipediaにはJesus walking on waterという記事がある。
福音朗読 マタイ14・22-33
22〔人々がパンを食べて満腹した後、〕イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
3年前の記事で、私は「私はペトロが降りて水の上を歩き沈みかけたという記述が好きだ」と書いている。今も同感で、理性で考えればありえないことと思われても、それが使命だと感じたら、挑戦したら良いと思う。そして、ほぼ100%「沈みかける」。挑戦して失敗しかけた時にもイエスは救いの手を差し出してくれると信じている。過去、大勢の市井の挑戦者は現れ、失敗していったわけだが、それらの働きの結果効果が非常に僅か、あるいは完全な失敗になっても社会は少しずつ変わっていく。寄せては返す波のようでもあるが、博愛の思想は思いの外強い。
最近読んだ「安倍元首相が語らなかった本当のこと」という本では、佐々木雄一氏が「東京都議選衆議院選挙がおこなわれた2017年の政治情勢に関して、「民主党政権はずメだったよね、というムードは、私がさんざん発信した影響もあって社会に定着していました」 と述べている(安倍晋三回顧録262頁)。ダメだったことが理解された、ではなく、「ダメだったよね、というムード」が「私がさんざん発信した影響もあって社会に定着」と説明しているのが興味深い。」と書いている。事実でないことでも、発信力がある人が繰り返すとやがてそれが事実のように受け止められてしまうのは現実である。イエスは十字架刑なるほど影響力があったわけだから、イエスが繰り返し奇跡を起こしていると、何でもかんでも全部イエスの言うことは正しいと思い込んでしまう人も現れただろう。ペテロはそういう人の筆頭であったようにも思われる。また、後に責任ある立場になった後は信仰を失うことなく慎重になったようにも見える。イエスがいる間は、イエスに依存しても良いと思っているから、簡単に挑戦できるが、責任ある立場になれば、イエスに関する嘘をつくとイエスの教えが毀損されるので誠実にならざるを得ない。それでも何度もペテロには奇跡が起きたようだ。人を扇動するにはムード(風)が有効だが、扇動者が作り出すムードで動けば、その扇動者が良かれと思って作った風であっても、真実を捻じ曲げてしまう方向に社会が劣化していく。死後長くかつ広範に影響を与える実在した人物は多くない。多くは、その残した負の遺産の発覚とともに敬意が失われていくものだ。しかし、イエスのように2000年を経ても輝きが失われない人もいる。ペトロのような素直な行動が何度失敗しても、原理が包括的であればずっと引き継がれていく。その思想を言語化する複数の互いに矛盾がある語り部の存在は重要である。例えば、複数の福音書があるのは無謬性を毀損するが長い目で見れば問題にはならない。教会や教師もムードを作り出す誘惑に堕ちることはしばしばあるが、博愛の思想は廃れない。
宗教的に捉えるわけではないが、広島の平和宣言(2026年版)は脈々と受け継がれてきた愛のメッセージだ。誰から始まったのかを突き詰めてもよいが、昭和22年(1947年)平和宣言で書かれている「永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう」が中心メッセージだろう。憲法前文(昭和21年11月3日)の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と通じるものだ。原爆被害者に殺されるほどの罪があったわけではない。その平和宣言は加害者を断罪するものではない。誰が悪いということではなく、もうこんなことが二度と起こらないようにしようというメッセージと取れる。キリスト教思想と違うのは、自分たちがイエスを殺したという自責の思想が含まれていないように読めることだ。私はそれが良いと思う。宗教原理主義は扇動のもとになるからだ。広島平和祭協会を作り、「永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう」と声を上げることは常識的に考えれば無理筋で、キリスト教徒から見たらペトロが水の上を歩くために一歩を進めた行為に近い。しかし、「世界平和の理想を地上に建設しよう」というメッセージはそれが無理筋であっても、無理筋であってもその推進の思いを共にしようと考える人は現れる。「専制と隷従、圧迫と偏狭」を志向するものに対する抵抗勢力となる。平和憲法や平和宣言は(憲法には天皇が記されているから宗教的と言えるが)宗教色が薄いので、宗教的なメッセージより賛同しやすいだろう。愛とは何かを考える時に神のみ心という概念から自由になるのは難しいので、宗教が無意味とは思えない。言い換えると、自分の信仰に基づく判断と自分の私欲の区別は困難だから、思いを尽くして精一杯誠実に社会ルールの改善に寄与するのが現実的だと思う。思いを尽くしても人の価値観は一致に至らないが、「誰ひとり取り残さない」というメッセージがSDGsと共に語られる程度には進化するのだ。それを破壊するような権力が台頭して後退することがあっても諦めなければ、少しずつでも人権は万民のものとなる。平和宣言の「永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう」は単なる夢に終わることはないと思っている。
世界の安全保障環境が厳しさを増しているというコンセンサスが現在の風(ムード)と言って良いだろう。悪いやつがいるから、そいつらを力で制圧すれば安全が確立できるというロジックだ。しかし、それは「私の安全」の追求であって日本人は、アメリカ人は、白人は、男性は、キリスト教徒は、イスラム教徒は、といった隔ての中垣を作ることにほかならない。その向こうに「永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう」の完成はない。現実には支配者たらんとする人は現れ続けるから、蹂躙されないように知恵を絞らないわけにはいかないが「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」という思想の原点を忘れてしまうと扇動者の罠に嵌まる。
ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」は並行個所にはないが、この話は本当にあったかも知れないと思っている。重要視しているのはペトロが希望したという点である。善いことを実現するにも一定の能力が必要となる。ペトロはそういう能力を獲得したいと願っただろう。水の上に一歩を進め、助けを得たとはいえ沈まずにすんだのは素晴らしいことだ。
私は「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」が全人類のコンセンサスになることを期待している。安倍、高市的な支配のためには差別も嘘も許されると思っているような人に権力を渡したくない。勝ち馬に乗ろうとすることは、「私の安全」の追求だから、その先に平和があるとは思わない。現実との折り合いをつけられなければ苦しい思いをすることになる可能性は高くても、慎重に博愛とはなにか、神のみ心とはなにかを常に意識して生きるのが良い。
※画像はアルメニアで15世紀に書かれたというイラスト付き聖書の「湖の上を歩く」の個所の絵。数多ある宗教画はそれぞれが解釈で、多様な解釈があるのが良いのだと思う。