新生活305週目 - 「「天の国」のたとえ〜天の国のことを学んだ学者」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第17主日 (2026/7/26 マタイ13章44-52節)」。3年前の記事がある。並行個所はない。

福音朗読 マタイ13・44-52

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。51あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」


Wikipediaではこの個所が真珠商人のたとえで取り上げられている。トマスによる福音書に類似の記述があことから、グノーシス主義との関連が触れられている。引用した英語版Wikipediaでは「多くのグノーシス主義の文書は、罪や悔い改めの概念ではなく、幻想や悟りについて扱っている(Google訳)」と書かれている。確かに「見つけた人」や「商人」は努力して探し回っている間に幸運なことに価値のあるものを発見して手に入れたわけで、まあ良かったねという話かもしれないが、価値が理解できない人はむしられても問題ないという意味にも取れるので、何かイエスの教えにそぐわない感じがする。マタイ伝は信者であることを特権的に書く傾向が強いので、真理は教会を通じて得られ、その向こうに人生の成功があると書いているようにも読める。「これらのことがみな分かったか」は非常に残酷な宣言でとてもイエスが言いそうな気はしない。

自分が救われたいという思いは強弱はともかく多くの人がもつ願望だろう。求道者は様々な方法で道を探す。それ自身は変なことだとは思わないが、小乗的か大乗的かで大きく行動が変わってしまう。小乗的な考え方だと悟ったものの勝ちということになり、同じ事をまねても悟りが得られるわけではないのが現実だから幻想が肯定化される。ユダヤ教は極めて排他的な選民指向で小乗型の極みと言え、イエスはそれは違うだろうと主張した。洗礼者ヨハネは小乗的な求道者で当時の権力者が本来の教えから外れていることを警告した。イエスは恐らくその教えに惹かれて洗礼を受けたのだろう。霊が降り、荒野の誘惑を受けるあたりは修験僧の行動に近いが、修行体験を経て、大乗指向が正しいと悟りを開いたと解釈することもできる。

「罪や悔い改め」を教義の中心部に置いたのはイエスかも知れないし、教団かも知れない。罪は自己愛だから、自己愛の問題を認識して、広い隣人愛を目指すのが悔い改めということになる。イエスは、そういう教えを語っただろうことは間違いない。広い隣人愛とは何かを追求していくのは簡単なことではない。それを探求するために修行に走る人がでるのも不思議なことではないし、誠実な探求者が多数だろう。修道院はその器の一つだが、現状逃避的な側面もある。誠実であっても同時に逃避的であるケースはある。

誰にも認められず、ただ一人となっても真理を追求したいという人が無価値なわけではない。一見反社会的であってもその発見が社会を大きく動かすことはある。動機も様々だ。

もし本当にこの個所がイエスの言葉だったとしたら、イエスは何を意図したのだろうか。みなが「天の国のことを学んだ学者」になれと言ったとは思えないが、「天の国のことを学んだ学者」には大きな価値がある。一見、常識に外れているからといって真理の追求者の声を安易に無視するなと教えた可能性はあるかも知れない。

学者が書く論文に再現性を求める社会システムが作られてきたのは、ある意味で直接的な生産活動に参加しない人の存在を認めてきたという歴史の裏返しでもあるだろう。

預言者と学者は託宣を与えるという意味では類似の存在である。強いて言えば預言者は一回限り利用できる提言を行い学者は繰り返し利用できる法則を提案する。繰り返し利用可能な、利のある提言でも副作用が出ることもある。大乗的なバランス化に失敗すると破綻する。

真珠商人はかなり自己愛の強い存在に感じられるが、彼によって顕在化したことが長い時間を経て(世の終わりに)評価されるというのは真理だろう。しかし、その評価を受ける時期に例えば発明者は既に死んでいるだろうし、復活して裁かれるとしてもあまりに大人数で何がなんだかわからなくなっているに違いない。私は、自分が批判している人も含めて、結局全ての人が救われるのではないかと大乗的に考えている。

しかし、今の現実は別だ。事には注意が必要だと考えている。再現性のない託宣には注意を払わなければいけない。バランスを崩すことにつながり、結果的に人の命が失われることにつながりかねないからだ。

自分の中にあるグノーシス的なものも否定する必要はない。それでも罪の自覚と不断の悔い改めはとても大事だと思う。

※画像はDepiction of the Treasure in the field and the Pearl of great price. Photograph of stained glass window at Scots' Church, Melbourne.