新生活149週目 - 「「天の国」のたとえ」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第17主日 (2023/7/30 マタイ13章44-52節)」。並行箇所はない。

福音朗読 マタイ13・44-52

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 
 45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 
 47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。51あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

福音のヒントでは、たとえ話の解き明かしが書かれていないので、このたとえが何を意味しているかは自分で考えるしかないという意味のことが書かれている。

私は、この箇所を読んだ時、そんなものかと思うとともに違和感も感じた。農耕的な思考なのかも知れないが、こつこつと畑を耕し、継続的な改善を行って収穫量を拡大させ、豊かさを高めていくのが好ましい道という考え方が好きなのだ。自分が行う勝負事はともかく、宝くじやギャンブルには魅力を感じない質である。

油田を見つければ金になる。山師のように利権を探索して独占利益を得ようとする人がいるのは自然なことだと思うが、油はその人が作ったものではない。とは言え、そこを起点として多くの人が仕事を得、豊かな暮らしの源泉ともなる。権益を奪い合う争いも起きることがある。

発見、発明は狙っても良いものだろう。現代であれば、その原資を金融商品化して挑戦者を増やし、ルールを整備して独占の弊害を防ぐように工夫している。山師のハードルは下がり、従事者が増えれば発見、発明の可能性は高まる。持ち物をすっかり売り払うことなく権益を手にすることができる。ただ、権益の独占はできない。比較すれば、良い時代になっていると思う。

繰り返しになるが、私は地道にコツコツやっていくことが基本だと思っている。同時に、ある程度の時間を発見や発明への挑戦に使いたい。畑に隠されている宝は畑を守る活動の過程で見出されるのかも知れないし、商人は商業の過程で探していた真珠を見つけるのかも知れない。コツコツを基本としつつ、それだけでなく、何か普段と違う新しいものを探し続けるのが良いと取ることもできる。まあ、そんな深読みをしなくても、勝負すべき瞬間がきたら、全力で取り組みなさいという教えに取ればよいだろう。

天使たちは、人々を選別して悪いものを燃やしてしまうとして、良いものは器に入れられて、結局食べられてしまうのであれば何が良いのだろう。救いがない感じがする。「これらのことがみな分かったか」と言われても、正直言って「わかりません」と答えるしか無い。

最後の「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」の訳は、結構割れていて、「天の国のことを学んだ学者」はNIVでは、"teacher of the law who has become a disciple in the kingdom of heaven"、ESVでは、"scribe who has been trained for the kingdom of heaven"の例がある。コンコルダスで揺れを見ていると、英語ではscribeが多く、学者よりは法曹に近い感じがする。ここは正しく価値評価を行おうとする人と取りたい。だとすると、古い教えのみならず新しい教えも適用して是非を判断するという意味に読むことができるだろう。古い教えはモーセ五書の律法、新しい教えはイエスの説く愛に基づく判断とも読める。律法主義は過去を裁き、新約は未来に注目すると取っても良い。両方だと言明している点には注目すべきだと思う。

改めて畑の宝の話を読むと、新たな道を見つけた人は、これまでの自分の全てを捨てて次の人生に移行していく話であり、新約でこれまでの常識とは違う道を見つけたら、躊躇なく全てを捨てて新しい道を選ぶのが良いという教えとなる。ただただ古い教え、慣習に従ってコツコツやるだけではなく未来を向けという話となる。

弟子たちは常識的にはscribeとすることはできない。学者ではないだろうし、法曹でもない。しかし「正しく価値評価を行おうとする人」であることは求められる。必要な時は聖霊がその言葉を用意するから、知識が足りなくても恐れることはないという教えもあるので、愛に基づく価値判断に従えという考えればよいのではないだろうか。

福音のヒント(4)では「一家の主人」はイエスのことと言い切っている。適切だと思う。

挑戦はやって良いが、成功した時にそれが良い世の中の構築に資するかどうかはわからない。判断基準は現世の未来を向いたものであるべきなのだろう。自分のため、が勝つと持続性がなくなる。

※画像は、Wikimediaから引用したレンブラント(またはヘラルト・ドウ)のParable of the Hidden Treasure。人の目を気にするような感じが後ろめたさを想起させる。人を出し抜こうとする欲が感じられ、その雰囲気は私の違和感と通底するものだ。悪銭身につかずということわざを想起させる。