今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第18主日 (2026/8/2 マタイ14章13-21節)」。3年前は「主の変容」の祝日で個所がことなっていた。マルコ伝6章、ルカ伝9章、ヨハネ伝6章に並行箇所がある。
福音朗読 マタイ14・13-21
イエスは〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
Wikipedia英語版にはFeeding the multitudeという記事がある。そこには「「五千人の給食」は、復活を除けば、四福音書すべてに記録されている唯一の奇跡である(Google訳)」と書かれている。ヨハネ伝は「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」となっている点が違うが、話全体としては、並行個所でほとんど一致しているのが興味深い。Wikipediaの記事が事実がどうかは分からないが、「四福音書すべてに記録されている唯一の奇跡である」ということを今回調べるまではまるで知らなかった。
昔、自由学園普通科の礼拝の時には教師の一人が、この個所の解釈として、実は群衆の一部もそれぞれ食べ物を持っていて、それを拠出したから結果的に五千人が満腹できたのだという考えを示していたことを思い出す。誰かが起点となる寄附行為を行えば、少なくない人が自分の財産を放棄するようになり、皆が幸せになるのだという話には、一定の説得力がある。奇跡物語をどう解釈するかは受け手の責任であり、物理法則を超える奇跡が起きたわけではないという解釈に徹するのも一つの考え方だろう。私には、実際に起きた事実がどうだったのかは分からないものの、教師の解釈に今も共感する。
思い切って、寄附行為に走るには勇気がいる。半ば盲信かもしれない。しかし、誰かの献身が世の中を大きく変えた事例は時々起きている。無論、後日神話的に伝承されたものもあるだろう。イエスの献身的な治癒奇跡と愛の教えは、明らかに世の中を変えた事例の一つ、あるいは筆頭事例だろう。
弟子たちは、自分たちの僅かな食べ物を供出した後の奇跡を見て、余った食事にありついたとしたら、そこから何を学んだのだろうか。イエスにしかできない奇跡として受け取ったかも知れないし、人の心を動かすことはこういうことなのかと受け取ったかも知れない。
今を生きる私たちにとっては、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」に自ら関わること、あるいは僅かであっても起点の一部になることはこういう寄進なのかも知れない。この世にあっても、小さな働きから愛の連鎖が起きる可能性があるのだと信じて良いと思っている。
今日の福音朗読では、〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕と補われているが、ユダヤ戦記では洗礼者ヨハネはイエスの死後、西暦36年頃に亡くなったとされているようだ。日本語Wikipediaの洗礼者ヨハネではそれに従っていて36年没、英語版Wikipediaの洗礼者ヨハネでは順序が逆で30年となっていてイエスが生前に〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を受けて行動したことが合理的になる。福音のヒントでは「イエスは、自分にも危険が及びそうな状況を知って身を隠そうとしていると考えることができるかもしれません」と書かれているが史実は分からない。私はこの時期のイエスは完全に洗礼者ヨハネからの独立を果たした後なので、ヨハネの生死が与える影響は大きくなかった可能性があると思う。ヨセフスが、この部分だけ歴史を曲げたとは考えにくいので、36年説の方が史実かも知れない。一方、ヨハネの死の話はマルコ伝6章に書かれていることから30年説の方が史実かも知れない。ただ、マルコ伝も全く加筆が行われなかったとは思えないので、本日の直前部分を飛ばして読むという選択もある。それでも話は通じると思う。
では、それによってイエスの教えの本質に影響を与えるかを考えるとそれは「否」であろう。史実は追求されるべきだと思うが、加筆、解釈改変に関わりなく迫ってくる教えに謙虚に聞くのが良いだろう。
※画像はGiovanni Lanfranco: The Miracle of the Loaves and Fishes。