キリスト教

新生活37週目 - キリストの聖体

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Carl Emil Doepler Fronleichnamsprozession (wikimedia/public domain)
カトリック教会の教会暦では、三位一体主日の次の木曜日が聖体の祝日となる。私にとっては「聖体の祝日」なにそれ?という印象なのだが、イースターの前に最後の晩餐を考える時と、この時期に「取りなさい。これはわたしの体である。」という言葉を考えるのは位置づけが変わる。十字架の前から見るか、ペンテコステの後から見るかで見え方は変わる。もちろん、本質は変わらない。

新生活36週目 - 三位一体の主日

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1210年頃に描かれた『三位一体の盾』の図式。言語はラテン語。子なる神(ラテン語: FILIUS、子)が下方に配置され、十字架で中央と連結されているタイプ。
ペンテコステは印象深いが、私は三位一体の主日を意識したことはない。「三位一体(wikipedia)」は公会議で定式化されたもので人間が考え出した概念だ。言わば、正統をめぐる論争の結果として得られた合意である。しかし、理解を文書化しただけでは力が無いのだ。しかし、ペンテコステを引用するまでもなく時として理解を超えて聖霊は働く。聖霊が働けば人の行動は変わる。

新生活34週目 - 「天に上げられる」

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Giotto di Bondone (1267-1337), Cappella Scrovegni a Padova, Ascension
イエスは復活から40日目に昇天したとされているのだが、なぜずっとこの世に残らなかったのか、その日数にどのような意味があるのかは謎である。イエスの復活後40日間は物理的な身体を有していたとされているので、生きた人間だったようにも見えるし、扉が閉じられている部屋にいきなり現れたりするのでもはや生きた人間にはありえない特徴を有していたのかも知れない。超越的存在を待望し、従いたいという依存心を刺激する。ちょっと怖い気がするが、その時期のイエスをこの目で見たいと思う。実際どうだったのだろうか。生きているイエスとは何かを考えてみた。

新生活33週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」

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第1ニカイア公会議を画いたイコン。アリウスが下方の闇に画かれ断罪されている。(メテオラ・大メテオロン修道院所蔵)
今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第6主日 (2021/5/ 9 ヨハネ15章9-17節)」。先週の箇所の直後である。福音のヒントは「15章以下はおそらく後から拡大された部分でしょう」としている。私に聖書学の知識はないが、改めて読むとこんなシーンは無かったのではないかと思われてならない。とは言え「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という教えは素直に受け入れてよいだろう。

新生活31週目 - 「イエスは良い羊飼い」

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ジュリアン・デュプレ 「羊飼い」-「田園讃歌 近代絵画に見る自然と人間」展カタログ
今の私は、ヨハネによる福音書に、イエスの人間臭をあまり感じさせない後から再整理した英雄伝的な傾向を感じている。生前から全部わかっていた感が強く出ていて、この箇所もどこか人間性が希薄な感じがする。生きているイエスは人間で一人の人間として使命に忠実に自分の命をかけて生きたのだと思っている。

新生活30週目 - 「エマオで現れる」~「弟子たちに現れる」

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Emmaus Ncopolis Byzantine Basilica restored upon a smaller scale by crusaders
今日の箇所のメインは先週のトマスの話の別バージョン。福音のヒント(3)にあるように「彼らの心の目を開いて、言われた」というところが印象に残る。情報は提供されている(見ることはできるのだ)が、「心の目」が開かなければ見えるようにはならないのである。

新生活29週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」

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イエスに触れるトマス。ドゥッチオ・ディ・ブオニンセーニャ作。1308-1311頃。
今日の箇所は「復活節第2主日 (2021/4/11 ヨハネ20章19-31節)」。「イエス、弟子たちに現れる」、「イエスとトマス」、「本書の目的」という見出しの箇所だ。改めてトマスのことを考えて好感をもった。疑い深いという批判的な接頭辞とともに書かれることが多いが、事実に沿って考える姿勢は決して悪くないと思った。