新生活277週目 - 「イエス、洗礼を受ける」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「主の洗礼 (2026/1/11 マタイ3章13-17節)」。ルカ伝1章に並行箇所がある。3年前は暦の関係で「主の洗礼」は週日に祝われているようでこの箇所ではない。ちなみに「主の洗礼」の記事は2021年マルコ伝2022年ルカ伝2025年ルカ伝がある。振り返ると、2021年にはマサダの写真を引用すると共に「ユダヤ砂漠のことは最近まで知らなかったのだが、エルサレムと死海の間にあり、荒野はこの岩砂漠を表すと考えるのが適当だろう」と書いている。このシリーズ4ヶ月目で、朗読配分の箇所を調べながら書くのが習慣化した頃のこと。礼拝に受動的に参加していたときとは異なり、毎週能動的に調べるようになったことで得られた知識は少なくない。2022年にはベラルーシ・ミンスクの教会の写真を使って感想を書いていた。昨年は、鳩のステンドグラスを引用。

福音朗読 マタイ3・13-17

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

2021年福音朗読 マルコ 1・7-11

 〔そのとき、洗礼者ヨハネは〕こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

2022年(2025年)福音朗読 ルカ3・15-16、21-22

 15〔そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
 21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


今回で並行箇所が揃ったことになる。

マタイ伝では、洗礼者ヨハネはイエスに洗礼を授ける前にイエスが特別な存在であることに気がついている。福音のヒント(2)でも触れられているが、ルカ伝では、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあり、第三者でもその事実を確認できたことがわかる。事実なら、パニック状態になってもおかしくない。マルコ伝では、イエスの個人的な体験と捉えることもできる。マルコ伝の著者は一節ではアラム語話者であるペトロのギリシャ語通訳ヨハネ・マルコで、ペトロから聞き取ったイエス伝をマルコ伝としてまとめたとされている。イエスは、このあと荒野の誘惑に霊によって導かれ、彼の公生涯が始まる。ペトロは、イエスから洗礼時の体験を聞いていて、それをヨハネ・マルコに語ったと考えると納得感がある。

福音のヒント(4)で堅信の秘跡について触れられているが、プロテスタントでは堅信という概念は無い。あるいは希薄である。感順には洗礼が入信許諾で堅信が宣教参加と捉えることができる。福音のヒントでは「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」とまとめられている。また、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」とも書かれている。ペンテコステで霊が降って、初期信者が「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」に目覚めたという意味だろう。「主の洗礼」でイエスは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声に接し、荒野の誘惑あるいは放浪でミッションが何であるかを悟り、あるいは霊に従うことを受け入れ、公生涯に乗り出したと捉えることもできなくはない。イエスを特別な存在と考えるか、イエスは霊が降って特別な存在になったと考えるかで理解は変わる。マルコ伝は空の墓で終わっている。ペテロはイエスがやがて霊を送るという言葉を聞いていて、ペンテコステでその言葉が実現し初期信徒が堅信したと考えることができる。パウロもダマスコで霊が降って堅信したと解釈することもできる。マタイ伝は、イエスは生まれつき神性を有していたと考えていて、預言の成就というコンテキストでイエスを描く。読みやすいのだが、どうも史実とは異なるのではないかと思われるところが少なくない。恐らく「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った」という事実はなかっただろう。

カトリックは、堅信礼を実施できるのは司教としていて司祭には本来権限が無いが司教からの委任をうけることはできるらしい。よくわからないが、本物の霊かどうかを見分けることができる人を慎重に選ぶということなのだろう。それでも、完全ではありえないから、継続的に過去の判断の再考が必要になる。私はやがて聖人認定は廃止に向かうと思う。人ではなく行為に焦点が当たった方が望ましい。メシア待望論と同じく、人は人に依存しやすい特性を有しているので、人に焦点を当てたストーリーはなくなることはないだろう。私は「「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」というのは人間イエスの個人的な感想だと思う。ただ、個人的な体験であっても、その後の行動を大きく変えてしまうような事は起きる。

与えられる役割は人それぞれであっても、恐らく全ての人に声は降る。慎重に聞き従うことになるが、踏み出さなければ成果につながることはない。

※Wikipediaの「主の洗礼」経由で画像がたくさん見つかる。引用したArent de Gelder: Baptism of Christを含め様々な表現で描かれているが、実際はもっと地味だったのではないか。事件はイエスの脳内で起きていたと考える。