福音のヒントでは、本日は「主の洗礼 (2021/1/10 マルコ1章7-11節) 」。新共同訳で見出しがついているのは9節の前。洗礼のシーンだけが切り取られている。降誕節の最後の日曜日に当たる。つまり、まだ出世前ということだろう。
まず聖書箇所を引用する。
福音朗読 マルコ 1・7-11
〔そのとき、洗礼者ヨハネは〕こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
福音のヒント(1)の「洗礼者ヨハネが予想していた「来るべき方」は、この「風と火による裁きの中に人々を沈める方」だったのでしょう」は示唆に富む。罰する神が来るという思想だったのだが、キリスト教の三位一体の神は、罰する神ではなく愛を説いて殺されてしまうような弱い神の子だった。自分のために力を行使しないのである。
私は秘跡という伝説に重きはおかない。いくらでも後から改ざんできるからだ。一方で、回心は私にとって実体験だから今も受け入れられる。思春期に宗教教育と科学への憧憬による合理性の追求の狭間の中で、ある日気がついたら信仰告白する気になっていたからだ。私にとって、一生で一番の変化である。将来、上書きされる可能性は否定しないが、今の真実だ。
果たして、受洗の前後で人間イエスに何が起きたのか?
もちろん、他人の心の内面は誰にも分からない。「風と火による裁きの中に人々を沈める方」のための露払いを洗礼者ヨハネが標榜していたとすると、洗礼の意図と、洗礼の結果あるいは効果にはとても大きなギャップがある。きっかけを提供する者はきっかけを与えることしかできない。きっかけを与えられた結果何が起きるかはまさに神のみぞ知るということなのだろう。
突然、使命感を自覚した人は過去に学んだことの意味が俄に分かり自分の能力発揮の源泉に変わる。しかし、他との対峙がなければ実効性をもつことはない。この瞬間のイエスと十字架のイエスは連続しているものの、この瞬間のイエスが既に完成されていたと思うことは私にはできない。同時に、パウロ(サウル)に出現した復活のイエスの存在を信じることができなければ、今の私はなかったと思う。もちろん、単なる思い込みかもしれないが、自分に起きた現実で、自分の口で信仰告白した事実は取り消すことはできない。
英語版Wikipediaの洗礼者ヨハネの記述を見ると、使徒言行録18章24節からの「アポロ、エフェソで宣教する」という記事が出てくる。25節に「彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。」と書かれている。コーランにもヨハネは預言者として登場するようなので、相当な有名人だったのだと思う。英語版Wikipediaでのイエスの洗礼のシーンの比較分析が興味深い。
- Baptism of Jesus
The gospels differ on the details of the Baptism. In Mark and Luke, Jesus himself sees the heavens open and hears a voice address him personally, saying, "You are my dearly loved son; you bring me great joy". They do not clarify whether others saw and heard these things. Although other incidents where the "voice came out of heaven" are recorded in which, for the sake of the crowds, it was heard audibly, John did say in his witness that he did see the spirit coming down "out of heaven" (John 12:28–30, John 1:32).
In Matthew, the voice from heaven does not address Jesus personally, saying instead "This is my beloved son, in whom I am well pleased."
In the Gospel of John, John the Baptist himself sees the spirit descend as a dove, testifying about the experience as evidence of Jesus's status.
マルコ伝、ルカ伝では神の声はイエスに語られていて、マタイ伝では公開された宣言、ヨハネ伝ではヨハネの証言として語られていると書かれている。現在の私の理解では、マルコ伝、ルカ伝の記述がしっくりくる。神の声は人間イエスに届いたのだと考えるのがしっくりくるのだ。ヨハネがその声を聞いたかどうかは分からないが、聞いたと考えて良いような気はしている。
洗礼者ヨハネはユダヤ砂漠に拠点を置く修験者、山伏のようなものだったのだろう。都市生活を避け、山ごもりしている強靭な賢人のイメージだ。いかにも「風と火による裁きの中に人々を沈める方」の待望を説きそうである。ユダヤ砂漠のことは最近まで知らなかったのだが、エルサレムと死海の間にあり、荒野はこの岩砂漠を表すと考えるのが適当だろう。ユダヤ戦争の最後の戦地マサダはこの地域に属す。当時と現在では相当な変化があるだろうが、国立公園のページを見るだけでも尋常ならざるものを感じるが、ぜひ実際に自分の目で見てみたい。風景や厳しい気候、そういった肌感覚が心理面に与える影響は、そこに行ってみないと感じることはできない。行ったからどうなるというものでもないだろうが、今は自分の目で見たいと思っている。今いる場所に留まっているだけでは道がひらける気がしないからだ。同時に今いる場所で生きていかないわけにはいかない。
福音のヒント(4)では「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」が強調されていて、イエスが洗礼を受けた時におきたことは、教会で行う洗礼にも続いていると説いているように読める。確かに、受洗時の信仰告白は「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」を心に刻む瞬間となる。その瞬間には一種のゴールと感じられるけれど「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」は具体的な行動を伴うから、しばしば軋轢を生み、しばしば迷う。教会暦に沿ってイエスはどう行動したかを追うのは自分の行動判断のための参考情報になる。しかし、結局は自分の頭で考えて判断する以外の道はない。迷った時には、信仰告白したことを思い起こし、反省して再び歩み始めれば良いのだろう。自分が一人きりになったと思った時にこそよくよく考えなければいけないのだろう。待つべき「時」であれば待てば良い。行動に移すべき「時」であれば行動すれば良い。
画像は、Wikimediaから引用したもの。