新生活133週目 - 「復活する」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活の主日 復活徹夜祭(2023/4/9マタイ28章1-10節)」。イースターである。3年前は2020年4月12日で砧教会は総会決議に基づいて閉鎖されていた。今日の箇所は各福音書に並行箇所があるが、マルコ伝は原典では16章8節で終わっていたとする説が有力でマタイ伝の28章9節〜10節の並行箇所はマルコにはなかったと考えるのが適当だろう。ルカ伝とヨハネ伝ではペテロが空の墓を確認したくだりが入っているが、マタイ伝、マルコ伝にはその記事はない。

福音朗読 マタイ28・1-10

 1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

イエスの墓が空だったのをマリアが確認したのは事実だったのではないかと思う。また、女性2人で墓を開けるのは困難だろう。二年前一年前にも新生活ブログで触れているが、事実関係についての認識は当時と変わっていない。マルコ伝では、空の墓までで、マタイ伝では、復活したイエスとの再会までで、ルカ伝では、昇天の記事がある。ルカ伝では、肉体をもった復活のイエスは一定の期間を経てこの世を離れたという解釈になっていて、いま会えないことは問題にならない。マタイ伝だといま復活のイエスがどこにいるのかが問題となる。福音のヒント(1)では「復活のいのちとは、時間・空間の制約を越えたいのちなのです」とある。まあ、そう考えるしか無いだろう。自分の体験に基づいて語れば、イエスは存在して自分にアプローチし、その存在を私は信じたということだから、最小記述のマルコ伝の内容で十分だ。パウロのように劇的なものではないが、イエスは来たという体験があったのだ。理性的に考えればそれは幻想だろう。幻想かも知れないが、私は自分の口で信仰告白した事実があり、それ以来何度も振り返っているが、あの時の告白はあれで良かったのだと今も思っている。それが明日は変わるかも知れない。沢山の人が信仰告白をし、少なくない人が去っていった。信仰告白を心から繰り返している人でも価値観や行動が一致するわけではない。しかし、繰り返している人は復活したイエスは自分に語りかけ続けていると思っているのだろう。そして、自分が進むべき道に向かって歩もうとしているのだと思う。それでも、その方向は一致するわけではない。

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もモーセ五書の神を同じ神としている。しかし、行動規範は一致しない。キリスト教も宗派によって規範は異なるし、イスラム教もスンニ派(スンナ派、思想重視)、シーア派(権威重視)は対立関係にある。人についていくか、何があるべき姿なのかを追求するかで大きく道は別れていく。現実問題として、最初は誰か先人についていく以外の方法はないだろう。親や学校の先生などが言っていることに従うところから自分の人生の歩みは進んでいく。私は神社の幼稚園に通っていた。なんとなく神は祟るもので、怒らせないように節制しなければいけないと思っていた。大人になれば、幼稚園の先生も、学校の先生も、親も、牧師も、神父も、神主も、政治家も、大統領も、王も、天皇も一人の人間に過ぎないことに気づく。

イエスの弟子たちもマリアも人間イエスに従っていた。わけのわからないことも言うが、魅力があってこの人についていこうと考えたのだろう。自分の考えと違うことはもちろんあったはずだが、イエスについていくことに決めていたのだろう。その歩みは、一旦十字架刑で終わった。マリアは人間イエスへの執着があって墓に行ったが、そこにイエスはいなかったのだ。信仰告白の本質はイエスは死んだが、しかし復活のイエスとして復活し、その後ずっと人の心に働きかけ続けていることを認めることだと考えている。

パウロは生前のイエスに対する興味が薄かったという意見があるが、彼は人間イエスではなく復活のイエスに出会って、今も復活のイエスが働いていることを信じていたからではないかと思っている。書簡を読むと、彼は復活のイエスと深くつながっていたように感じられてちょっとうらやましいが、キリストを信じるようになった後の彼の行動が常に正しかったとは思わない。彼が見えている世界は現代人が見えている世界とも違う。ただ、彼は人間イエスについていったのではなく、復活のイエス、彼の神に従って行動していたのが現実だったのだと思う。

イエスがこの世に生きている時期は、信者はイエスという人について行っていた。復活後は、ついて行く対象となる物理的な存在は既にいない。墓は空だったから、死体や骨を祀ることもできない。仏舎利はない。

復活のイエスを信じるということは、誰かに導かれて=福音を伝道されて、信仰告白に至ったとしても、その人や権威に依存し続けることなく自分自身で復活のイエスの声を聞いて生きるということだと私は思う。できれば、共に歩む人がいたほうが心強いが、権威に隷従するのは御心ではない。

福音のヒント(4)の

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。マタイ福音書が伝えようとする復活のイエスは、復活の日の朝、女性の弟子たちに姿を現した方というよりも、目に見えないが永遠にわたしたちと共にいてくださるイエスなのです。

に共感する。マタイ伝、ルカ伝的な解釈では、復活後の体を有するイエスから「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と弟子たちらが聞いたということだし、マルコ伝には書かれていないが、弟子たちらは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という信仰を得たのだと思う。それでも、その信仰を維持できた人もできなかった人もいたはずだ。

私は、今日本基督教団砧教会の金井美彦主任担任教師および役員会から迫害されている状況にあるが、自分の信仰が維持できたら幸いだと思っているし「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という福音を伝えたいと思っている。人間として至らないから摩擦を起こすこともあるが、私は真実を追求し続けるのが私に与えられた道だと考えている。「道を真っ直ぐにせよ」と訴え続けたい。復活を祝うイースターに、それぞれの人が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という声を直接復活のイエスから聞き、自らの道を考え、新たな一歩を踏み出すことを推奨する。かつて物理的な声があったかはわからないが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」は今日でも直接個々人に発せられている。

※画像はWkimediaから引用した「1881 モリッツ・エルドマン キリストの墓で嘆くマリアとマグダラのマリア」。イエスの死体がなかったのを見たら、マリアらは困惑しただろう。しかし、やがて再び自分の足で歩みだしたのだと思う。