今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活の主日 復活徹夜祭(2026/4/5 マタイ28章1-10節)」。3年前の記事がある。
福音朗読 マタイ28・1-10
1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
3年前の記事には「3年前は2020年4月12日で砧教会は総会決議に基づいて閉鎖されていた」とある。COVIDの深刻化から6年が経過したということだ。これからも感染症が日常生活を変えるようなことは起きるだろうし、6年を振り返ると、置きた変化の一部は不可逆で元の暮らしがそのまま戻ってくるわけではない。良い面も悪い面もある。この時の総会決議を権威主義者に堕した(と私は思っている)金井美彦は総会議長として決定したのに、それを無視して佐分利正彦とともに2020年6月7日に会堂礼拝を強行開催し、それを批判した私を弾圧した。総会決議は別の総会決議で上書きするのは問題ないが、勝手に有力者が変えてしまえば、組織が腐敗してしまう。その金井も今月から百人町教会に異動したので、砧教会はまた新たな道を歩みだすことになるのだろう。公同の教会として、ふさわしい活動がなされることを期待する。新たな道を歩む金井美彦の上にも主の導きを祈る。良い業をなしていただきたい。今回の変化で、私と砧教会の関係にも変化が生じるかも知れない。
空の墓の話は、不思議な話だが、確かに死んで遺体となったイエスが健康を回復して自らの足で出ていったというように読んでよいのだろう。常識的にはありえない話だ。人間イエスのホームグラウンドであったガリラヤに向かって100km強歩いていった。もしエルサレムで活動を再開していたらパニックを引き起こしただろうが、なぜかひっそりと近しい人達に現れた。マグダラのマリアもガリラヤの人だったので、イエスについてエルサレムに来て、事件後にはエルサレムに留まる理由はなくガリラヤに帰ったと考えるのが適当だと思う。弟子たちも同様だろう。相対的に静かな田舎であるガリラヤで復活のイエスに出会った弟子たちは、再び伝道活動に従事する道を選んで、エルサレムに向かった。
ルカ伝では、十字架刑から3日目(月曜日?)に二人の弟子がエルサレムからエマオに向かう道のりでイエスに会ったことが書かれている。サマリヤ経由でガリラヤに向かう経路だろう。イエスは、泊まらずに歩き続ける素振りだったようだが、引き止めて共に泊まったとある。使徒行伝では弟子たちはエルサレムに留まっていたように読めるが、ガリラヤで復活のイエスに接し、改めてエルサレムでリスタートする決心をしたのだろう。そしてペンテコステ事件が起きた。
その時、もう人間イエスはいない。天に昇ったとされている。体を有する復活のイエスとしての時期は過ぎて体を持たない神になり、聖霊を下すものとなったと理解している。聖霊が動く時、体をもったイエスと接するのと同様あるいはより強い体験を人に与える。信仰告白は奇跡だ。
ガリラヤに戻った人々には再び日常生活が戻ったのだが、既に人間イエスと共に過ごした日常は戻ってこない。新たな段階に変わったのである。
イースターを記念するということは、自分の中で起こった変化を思い出すということでもあり、再び自分たちの進むべき道に思いを込めるということでもある。刺激を受け続けないと体験は細っていくので聖餐式も礼拝も原点を思い出して信仰を維持するのに必要なことだ。残念ながら、放っておくと体験は遠いことになっていく。
自分が何をなすべきかを再認識する日でもある。2000年前の主の復活の驚嘆を自分のこととして捉えることはできないことではない。
※画像はCaravaggio: Supper at Emmaus ルカ伝の「エマオで現れる」ではイエスであることが分かったら見えなくなったと書かれている。