昨日、砧教会役員会に向けて請願書を送ったがゼロ回答だったという記事を書いた。
その記事で、「独裁体制そのもの」であると断じているその考えは今も変わらないが、金井美彦氏は役員に対して事実をごまかせという指示はしていないから、独裁者と呼ばれるのは不当だと考えるのは自然だと思う。ただし「萩原さんが牧師と相反する主張を仰っているが、どちらが正しくて、どちらが間違っていると言う結論も出せす(ママ)ことではないと、意見が一致しています」の存在を知りながら黙認した責任は重い。萩原は事実の確認を求めたが、「2020年役員会としての考え」をまとめた人達は、萩原の主張を否定する根拠がなかったため牧師の不利にならないような対応をとった。今風の言葉を使えば「忖度した」のであって、金井美彦氏は役員会も総会決議違反はなかったと言っているのだから総会決議違反がなかったことは明白だとした。実際、金井美彦氏は当事者の佐分利正彦氏を取りまとめに任じたのには瑕疵があると思うものの、自分を外して私を除く役員に是非を検討させたのである。これは決して独裁を志向する者の行為とは言えない。今風の言葉であれば「第三者の適正な評価を受けた」と言って良い。つまり、形式的には金井美彦氏の手は汚れていない。
しかし、実際には事実は評価されなかったので、第三者の適正な評価は存在しなかったのだ。途中で気がついていた人がいたかどうかは分からない。引いて全体像を見ればアウトだ。
結論を急げば、金井美彦氏にも役員各氏にも悪意はなく、それぞれの立場で好ましいと思うことは行ったが、結果として事実に基づいて書記役員の責任を果たそうとした私の主張を理不尽に否定することになり、結果的に居場所を奪い、今も排除を続けている状況が続いているというのが事実だと思う。
もちろん、金井美彦氏にも役員各位にも私を排除し続けている自覚はなく、不当に貶められていると考えているだろう。
以下の添付はすでに2021年6月26日に金井美彦氏と役員には送付済みの資料から一部教会運営に関わる部分を落としたものである。
ほぼ経緯は明らかだと思う。
ちなみに、金井美彦氏は、2021年5月29日に以下の主張をしている。
ただ、誤解というか認識違いを確認しなくてはなりません。昨年6月7日に会堂閉鎖を一時的に解いたのは確かです。ただし、これは私の独断ではなく、萩原さんも含めた役員全員の了解がありました。つまり、会堂に私とオルガニストがいるというのは会堂閉鎖を解いたということです。萩原さんは私とオルガニスト以外が入った(正確には佐分利さんが入った)ことをもって閉鎖を解いて決議を破ったと考えているようです。わたしは、牧師とオルガニストがいるということですでに閉鎖の解除は前提とみて、もしもの場合に備えたのでした。そして礼拝中止連絡の不行き届きの人が入るのはやむ無しとしたのです。
本当にそう思って書かれているのだろう。会堂閉鎖を解けば自動的に総会決議違反となる。これから先は総会決議違反があったという事実に基づいて考えることになる。
私は一度も総会決議違反という主張を取り下げたことはない。一方、もう止められないことは明らかになった時点で、論争中の土曜日の電話で「もうそろそろ出ないと終電に間に合わないのではないですか」と発言しているなど会堂での礼拝実施に協力したのは事実である。これはゼロ回答にあった「会堂を閉めるとしてとしても、喜んで受け入れるのは当然」とある意味で同じことで、例え総会決議違反だとしても、牧師を羽交い締めにしてでも礼拝の開催を止めるなどということができるわけがない。総会決議違反は明白だが牧師が会堂で礼拝をやると言っているのだから、それを止めることなどできない。礼拝の開催には牧師は不可欠であり、開催に協力するのは役員でなくても会員としては当たり前の行為である。添付にある『6月7日に「本日の会堂での礼拝再開強行は明らかな総会決議事項違反であり、それを止められえなかったことの責任を取って辞任を申し入れます」と申し入れた。』は文字通りのことで、礼拝再開強行は総会決議事項違反だということを懸命に知らせ、その深刻さを伝えるために礼拝再開を強行したら辞任しますと予め申し入れていた約束を守ったのである。私は、その時金井美彦氏の選択肢は2つあると思っていた。総会決議違反となるという事実を認めて会堂再開を中止するか総会決議違反だが必要なので会堂再開は行うというものである。これは、添付にある6月5日の『もちろん、総会決議を覆すだけの理由があれば問題ありませんが、少なくとも臨時役員会の開催、決議が必要だと思います。』に書いたとおりで、総会決議に反してでも必要であれば、破れば良いと主張している。総会決議至上主義者という金井美彦氏の糾弾は不当である。総会決議は明文化されており、総会決議に適合しているか反しているかはほぼ機械的に判断できる。機械的に判断すれば総会決議違反は明白だから、それは総会決議違反ですと指摘しただけなのである。
しかし、金井美彦氏は2020年6月7日に萩原から辞任が申し出がった時に、総会決議違反はなかった、あれはオンライン礼拝で会堂再開はなかったと主張したのである。その主張を「2020年役員会としての考え」をまとめた人達に伝たので「萩原さんが牧師と相反する主張を仰っている」という事態が発生した。あるいはオンライン礼拝で会堂再開はなかったと主張したのは佐分利正彦氏かもしれない。その責任追及にあまり意味はないと思うが、会議参加者は思い出せるものであれば思い出して何らかの形で記録しておいてほしいとは思う。
ちなみに、金井美彦氏は一度は萩原からの総会決議違反の指摘に反応した。その結果「会堂礼拝を先週決めたとおり、いったん再開しようと思います」は取り下げ、今後のリハーサルかオンライン礼拝を会堂から行うというロジックにしてはどうかと私に提案したのである。私はそもそもコロナ下で会堂再開には反対だったが、牧師の意を受けて、そのロジックが組み立てられないか尽力した。その時はオルガニストが入ることは開示されていなかったので、自宅でやるのと全く同じ形で実施するのであれば、オンライン礼拝であって会堂再開ではないと言えるのではないかと考えて、ホームページの文案を起案し役員の同意を得た。しかし、その後オルガニストを入れる話が出され、組み立てたロジックは崩壊した。オルガニストは止めるべきだと進言したが受け入れられなかったため、無理があるのを承知で「6月7日は牧師と奏楽者のみが会堂にいる状態でオンライン礼拝を継続することとしました」という修正を策定した。佐分利正彦氏を含む役員から異議はなかったので、金井美彦氏にも電話で再確認して了解を取り開示した。この時点で私自身はもう既に黒だと思っていたが、牧師が総会決議違反にならない形で会堂でオルガンを鳴らしたオンライン礼拝をしたいという意思を受けて作成した文案である。佐分利正彦氏は、事前に通知することもなくあっさりとそれを破り「6月7日は牧師と奏楽者のみが会堂にいる状態でオンライン礼拝を継続することとしました」は事実と反することとなった。連絡が適切になされたか否かは別だが、来てしまった会員が入るのは当時の文案に適合している。
金井美彦氏の2021年5月29日のメールは実態に即していると考えている。金井美彦氏の「会堂に私とオルガニストがいるというのは会堂閉鎖を解いたということです」という発言はもともと私から出たものだ。私が「会堂に牧師とオルガニストがいたらオンライン礼拝とは言えません」と主張したのである。だから、会堂再開にしないためにオルガニストは止めて下さいと進言したのが事実である。
私が合意したのは「6月7日は牧師と奏楽者のみが会堂にいる状態でオンライン礼拝を継続することとしました」が守られたら、総会決議違反の指摘をしない(関連して役員辞任は申し出ない)ということである。金井美彦氏が書いているように「会堂に私とオルガニストがいるというのは会堂閉鎖を解いたということです」と考えていたが、総会決議に違反したくないという金井美彦氏の希望をかなえようとして自分を偽った。もし、それが問題に発展したら、自分が責任を負う覚悟をしていた。あの文案はそういう覚悟の文案だったのである。
しかし、約束は守られなかった。それ以上はもう耐えられなかったので、総会決議違反を指摘して辞任を申し出た。金井美彦氏は佐分利正彦氏への確執ではないかと述べている。私はそれを否定しない。約束が守られなかったとしても、破った主体が佐分利正彦氏でなかったら自分を偽り続けられた可能性はあったかもしれない。どう反応したかは今となっては分からないが、私は自分が黙っていたとしても起きていることは総会決議違反だと確信していたので、結果的には確信に基づく告白を行ったことは正しかったと考えている。いずれにしても事件は起きた。引き金が佐分利正彦氏であってもなくても私にとっては今はどうでも良い。今はむしろ佐分利正彦氏のおかげで自分を偽らなくて済んだと感謝すべきかもしれないと考えている。私自身が牧師に対して忖度していたのだから危ないところにいたのである。ただ、それは佐分利正彦氏の書記としての責任問題とは別である。
繰り返すが、金井美彦氏は6月7日には「会堂再開を中止する」か「総会決議違反しても会堂再開を行う」という選択肢があった。しかし、金井美彦氏は会堂再開は行うが総会決議違反とはしないという無理筋を通そうとしたのである。それが私と相反する主張となり役員会を機能不全に陥れ、意図はなくても独裁体制が出来上がり私に虐待感を与えることになってしまったのである。
もちろん、以上の展開はあくまで萩原の視点での事実である。どこかで根本的に間違っているかもしれない。誤りがあれば、ぜひ指摘していただきたい。
砧教会は事実に基づく判断が行われる教会であって欲しいと願っている。