新生活125週目 - 「律法について、腹を立ててはならない、姦淫してはならない、離縁してはならない、誓ってはならない」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第6主日 (2023/2/12 マタイ5章17‐37節)」。一部、マルコ伝9章、10章、ルカ伝12章、16章に並行箇所がある。

福音朗読 マタイ5・17-37

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 
 《17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》 
 20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。 
 21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」 
 《「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」》 
 27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」 
 《29 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》 
 33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」 
 《「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」》 
 37 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

改めて読み直すと、マタイ伝5章は福音のヒントで「ある聖書学者は、初代教会の中で新しくキリスト者になった人々に対して、キリスト者としての新しい生き方を指し示すという意図の下で集められたのではないかと述べています。」とあるように入門書的な匂いが強い。

今日の箇所は律法の話から始まる。新共同訳の見出しで「律法について」は17節から20節。十戒はともかく、レビ記などには長々と戒律の話が出ていて、現代ではどう考えても適切と思えないような内容も少なくない。イエスは本当に「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言ったのだろうか。現実問題として、律法が規定する内容の多くは合理的なもので規範としては採択可能なものだっただろう。それを基準として解釈を是正すべきという立場だったのではないかと想像する。キリスト教会はユダヤ教の指導部とは一線を画する新解釈を与えながら律法を尊重する立場を取っていたのだと思う。「愛」一本では社会を成り立たせることはできない。律法の上位に愛を位置づけるというのが現実的な選択で、キリスト教会は愛の教えと乖離が出る部分は律法を修正することで対応するという活動をずっと続けてきた。常に、保守派や愛国者(民族主義者)の抵抗にあいながら、「愛」に準拠する方向に変質してきたと言って良いと思う。少し前であれば、女性の権利の尊重が行われ、直近であればLGBTの許容への動きが進みつつある。欧米の人権運動の原点はイエスの説く愛に根ざすものだと考えて良いだろう。今は、もう宗教は必要ないという考えも多くを占めるようになっていて、全ての差別を解消していくという考え方を普遍的な価値観と位置づけようという運動に変わっている。それでも最初の一歩をイエスに置く考えはまだ残っていると言えよう。マタイ伝が書かれた時期にどういう変化が起こっていたのかは歴史学者に聞いてみたいところだが、イエスが来たのは律法の完成のためだという教えは、律法を廃することなく本質を読めというある意味無理筋の教えだったのではないかと思う。しかし、虐げられてきた人には確実にその教えは響く。同時に従来の規範も安易に蔑ろにはしない。ある意味で、非常に合理的な教えとなる。イエス自身は、律法に書かれている内容に逐一従っていたわけではない。そのままだと言行不一致だが、2000年後の私たちから見てもそれで未来が開けた部分を否定できる人はいないのではないだろうか。

21節から26節には「腹を立ててはならない」という見出しが与えられている。福音のヒント(2)では「人間の間の悪口や不和のすべてが神の意思に反するもの」と書かれているが、私はそうは思わない。差別をしている人は自分が差別していることを気が付けないことは多い。知らないだけのこともある。例えば、同性愛のことはそれが確率的な事象であることを認めない限り、異常に位置づけてしまうのはおかしなことではない。異常と位置づけてしまえば、愛を持ってその異常を是正するために力を出すのが正義となる。その正義が差別を生み、その善意が悲惨を生むのだ。つまり、その愛は真実の愛ではなかったということにほかならない。不満があれば表明するのはちっともおかしなことではない。キリスト教会は、男女差別や人種差別、宗教差別を行ってきた。しばしばその価値観を押し通すことが愛ある世界の完成に資すると考えてきたと言っても良いだろう。しかし、現実には誤解の連続だった。ただ、その誤解を認めて愛のある世界に向かおうとする力も決して弱くない。起きた不和や問題に立ち向かうことによって愛による完成の道を踏み外さないように努力してきたことが今もキリスト教会が残っている理由だと私は思っている。

この箇所の見出しは英語聖書だと、「殺人」とついているものもあれば、「怒りと和解」としているものもある。ESVではAngerという見出しがついている。見出しは先入観を生むが、訳者の考えが出るので興味深い。新共同訳の25節は「和解しなさい」と訳を当てているが、このεὐνοέωという単語はこの箇所でしか使われていないもののようで英語訳では訳が割れている。問題を解決する、合意する、友となるなどと解釈が割れている。並行箇所のルカ伝12:58では別の単語が使われていて「仲直りする」という訳があてられている。

イエスが当時の秩序を乱したのは事実だが、訴えは不当だっただろう。権力者は権力維持のために事実に基づくことなく死刑とした。その過程でピラトは和解を勧告していると思われる。しかし、イエスは和解の道を選ばなかった。不要な争いは避けるべきだろうが、安易に和解してはいけないことももちろんある。

権力に近づくと無理を通そうとする誘惑がついてくる。福音のヒントの福音朗読では〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕と補っているが、これらの教えは弟子に向けて発せられたと解釈しているのだろう。そのコンテキストで読むと、イエスは弟子は潔癖でなければいけない、弟子は兄弟に腹を立ててはいけない、弟子は誓ってはいけないと言ったという風に読むことができる。イエスに人気が出ると、弟子は特権を得る。それは幻想に過ぎない。一人の人間に過ぎないことを自覚しなければいけないと読むことができる。信仰告白した人はイエスの弟子となる。誰であれ、虐待に加担してはいけないし、虐待を問われた場合は自分が道を外れていないか告発するものの声を真摯に聞かなければいけないと取れば良いのではないだろうか。

「姦淫してはならない」は27節から30節。「離縁してはならない」は31節と32節。男が女を支配する時代が終わりに近づき、男性と女性しか無いとする考え方が時代遅れになりつつある現代においては再考が必要な箇所だろう。誰かに対する愛が冷めるのは現実だ。それを支配関係で関係継続を強制するのは虐待・人権侵害にほかならない。性的関係において、あるいは婚姻関係において愛が冷めても人間としての愛を冷ましてはいけないのだろう。どれだけ失礼な行いがあったとしてもその人は人間であることに変わりはない。愛を冷ましてはいけないのだろう。

「誓ってはならない」は33節から37節。並行箇所は見当たらない。しかし、この箇所は強烈な印象を私に与えてきた。この箇所は突き詰めれば、私(の所有権)は私に属するのか、私(の所有権)は神に属するのかという問いになる。正直に言えば、私は私の所有権は神にあると考えている。しかし、人間としては私の所有権は私にあると考えるべきだと思っている。一度河を渡ってしまえば、元いた場所の景色を見ることはかなわない。マタイ伝は明確にお前の所有権は神に属すると書いているが、ちょっと危ない箇所だと思う。それでも、正しいと思うことはただ正しいと思うと言え、おかしいと思うことはただおかしいと思うと言えという教えととれば好ましいことだと思う。言い方を変えれば「教会指導者がこういっているからこれが正しいのだ」などと権威を頼ってはいけないということとなる。

私は今日本基督教団砧教会から、現住陪餐会員への復帰を認めないとの通告を受けている。事実確認の伴わない通知だから権威に異を唱えたことで排斥されているとしか思えない。言ってみれば、金井美彦氏が私を『愚か者』と言っている状態で、教会役員会はそれを追認している状態にほかならない。正直に言って、牧師も教会としても終わっていると思う。ただ、そんな状況がずっと続くことはないと信じている。

※冒頭の画像はWikimedia CommonsにあるSermon on the Mount (1877)。マイクもスピーカーもない2000年前にイエスの説教をライブで同時に聞ける人は何人程度いたのだろうか。屋外の開けた場所だと、せいぜい100人程度だったのではないかと思う。ちなみに、今話題のChatGPTに聞いてみると「拡声器を使わない状況で同時に聞き取れる人数は、話者の大きさや声の大きさ、聞き手の数、環境の大きさや騒音などによって異なります。通常、同時に聞き取れる人数は数十人程度となりますが、特に騒音の多い環境や話者の声が小さい場合は、数人から数十人程度となります。」と帰ってきた。きっとイエスは何度も同じ話をし、弟子たちはイエスはこう言ったと繰り返し話したのだろう。福音書の形で文書化されるまでに長い時間が経過しているから、それを前提に読まないわけには行かない。その向こうには事実も扇動も含まれている。

ChatGPTも安易に信じちゃダメだ。

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コメント

https://takayuki.hagihara.tokyo/blog/2020-08-08

とりあえず引用しておく。砧教会は「最終的なお便り」で「新型コロナ感染者の爆発的発生という未曽有の事態に世界が、 日本が、そして砧教会も 翻弄されいろいろな場面で混乱が生じました。」と書いて自責を否定した。自分で決断したことを他責にするのはいかがなものだろうか。やがて歴史が証明するだろう。

金井美彦氏には、按手礼の式文を読み返すことをお奨めする。