マタイによる福音書の5章に以下のような節がある。
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」と書いてある。このテキストをこれまで「あなた」の側で読んだことしかなかった。しかし、この一連の節を「訴える人」の立場から読んだらどうなるだろうか。
この訴える人は、果たして「あなた」の破滅を望んでいるのだろうか。そういうシーンのあるかも知れない。ひょっとしたら多数がそうなのかも知れない。しかし、数は少ないかも知れないが、「あなた」との和解を望んでいる人もいるのかも知れない。「あなた」が和解に踏み出さなければ、一度入ったスイッチは止まらない。「あなた」は「最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」。そうなると和解を望んでいた「訴える人」も不幸になってしまう。
「訴える人」も自業自得だが、「あなた」も自業自得だ。だから腹を立ててはいけないのだ。そして、腹が立つのを抑えるのは極めて難しい。
「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」という言葉は重い。「訴える人」は「決してそこから出ることはできない。」のである。
腹が立つことを新型コロナのせいにしてはいけない。誰のせいでもない。何があろうと自分の責任と考えたほうが良い。同時に、他人に向かって「自己責任」と言い放つ人は、地獄行き濃厚だと思う。地獄が何だか知らないが。