残酷な楽観性一応読了。参照されている書籍や演劇等に関する知識がないので、理解が深まらないので、流し読みにならざるを得なかった。しかし、ある程度言わんとしていることは伝わってきた。
一章に以下のように書かれている。
「残酷な楽観性」とは、損なわれた状態にある可能性に対してひとが持つ愛着の関係性だと、序章で説明した――それはいわば、実現することが不可能だったり、「幻想でしかなかったり、あるいは可能すぎたり、 そして有害であることが判明するような可能性への愛着である。こうした愛着が残酷であって単に不都合だったり悲劇的だったりするわけではないのは、ある主体が対象Xをその人生のなかに持っているとき、その愛着の内容がなんであれ、愛着というかたちを維持しつづけること自体が、生きつづけることやこの世界に存在することを楽しみにすることがその主体にとってなにを意味するかという感覚に、ある種の連続性のようなものを与えてくれるものだからだ。
原文
In the introduction I described "cruel optimism" as a relation of attachment to compromised conditions of possibility whose realization is discovered either to be impossible, sheer fantasy, or too possible, and toxic. What's cruel about these attachments, and not merely inconvenient or tragic, is that the subjects who have x in their lives might not well endure the loss of their objectfscene of desire, even though its presence threatens their well-being,because whatever the content of the attachment is, the continuity of its form provides something of the continuity of the subject's sense of what it means to keep on living on and to look forward to being in the world.
Google訳
序論で私は「残酷な楽観主義」を、実現が不可能か全くの空想か、あるいは実現可能すぎて有害であることが判明する、妥協的な可能性への執着関係として描写した。こうした執着の残酷な点は、単に不便であったり悲劇的であったりするだけでなく、人生にXを持つ主体は、たとえそれが彼らの幸福を脅かすとしても、欲望の対象場面の喪失に耐えられないかもしれないということである。なぜなら、執着の内容が何であれ、その形態の継続性は、生き続けること、そして世界に存在することを楽しみにすることの意味についての主体の感覚の継続性の一部を提供するからである。
「残酷な楽観性」という言葉が何を意味しているかを理解するうえで重要な箇所だと思う。読み返している内にどうしても原文に当たりたくなって検索したら、PDF等が見つかったので、上記に引用させていただいた。読み手の感性にもよるだろうが、私はattachmentの訳は愛着よりは執着の方が適切に感じる。inconvenientの部分は、快適でなかったり、という意味に取りたい。「損なわれた状態にある」はcompromised conditionsの訳でGoogleは「妥協的な」としている。私なら、「実現できていない状態にある」と訳したい。執着している何かが実現した時に、それが決して素晴らしい世界でないことに薄々気がついていたり、明確に理解していてもなおその執着から離れられず、その道でなんとかなるだろうという思い、楽観を「残酷な楽観主義」という言葉として定義しているのだと思う。Google訳の「執着の内容が何であれ、その形態の継続性は、生き続けること、そして世界に存在することを楽しみにすることの意味についての主体の感覚の継続性の一部を提供するからである」は良い訳だと思う。原文の難解さに起因すると思うが、自分にとっての良い人生を生きる上で一貫的でありたいという欲望が執着を招くということだろう。宗教心も同じで、愛に満ちた社会は実現できていない状態にあり、まだ見ぬ未来に執着して、それが薄々実現することが不可能なのではないかと思いながらも、そこを目指すことを自分の人生と重ね合わせてしまって放棄できない状況と取ることができる。
有害な「損なわれた(実現できていない)状態にある可能性」の例は「過去の美しい日本を取り戻す」あるいは「強い日本」やMAGAだろう。冷静に考えれば「有害であることが判明するような可能性」である。世界の支配者になるという幻想をいだいた人を支持してしまうと多くの人の命が失われ、結局多くの支持者を不幸にする歴史的事実を無視して、その主張に執着してしまうのが「残酷な楽観性」の一種と捉えて良いだろう。一方男女平等や人種平等も実現可能かもしれないが困難な「損なわれた(実現できていない)状態にある可能性」と言えるだろう。こちらの方は追求されて然るべきと私は考えているが、同じ視点を誰もが持っていると考えるわけにはいかない。
本書、各章は結構暗くて、読んでいてウキウキするシーンは皆無だし、「残酷な楽観性」の姿を明らかにしている。処方箋が書かれているわけでもない。しかし、その現実を知ることが、それを乗り越えるための出発点となる。
執着(あるいは煩悩)からは逃れられない現実、あるいは自分が見えている世界が歪んで見えている現実を自覚しつつ、whose realization is discovered either to be impossible, sheer fantasy, or too possible, and toxicの部分を深く考える必要があるのだろう。減税しても、武装強化しても、輝かしい未来が待っていることはない。同時に、自分たちではどうにもできないこともある。本書を賢く生きろというメッセージととればよいのだろう。
選民の幻想など言うに及ばず、扇動に負けずに、事実に立ち向かうべしということだ。あくまで個人的な思いだが、キーワードは許しにあると思う。過ちを犯さない人はいないのだから、きちんと過ちを認めて先に進みたいと言う人を慎重に許していく姿勢こそが脱「残酷な楽観性」の鍵だと私は思う。