デジタル・ジオグラフィーズ読了。最初はともかくしばらく読み進むうちに混乱したが、読み切ってみるとその素晴らしさが垣間見えてきた。最終章は「地政学」で、そこまで読み切ってから最初の日本語版序文を読むと最初に読んだときとは全く異なる印象があった。
まず、ジオグラフィー・地理という言葉が難しい。Wikipediaの地理学を読むと「地理学は、大きく系統地理学と地誌学に分類され、系統地理学はさらに自然地理学と人文地理学に分けられ、それぞれがまた細かく分類される。」と書かれている。Geoという言葉から、パッとGISを想像してしまう自分の狭さを思い知らされる。一方英語版では、Physical、Human、Technicalとまとめられている。もちろん英語版と日本語版で共通する記載は多いが、違いも際立つ。少なくとも若い時期の私は人文地理学は全く惹きつけるもののない分野で真面目に取り組んだことはなかった。
目次は以下の通り
日本語版序文 デジタル地理学/日本の地理学
第1章 デジタル・ジオグラフィーズへの招待
デジタル地理学
デジタルを定義する
デジタル論的転回
本書の構成第Ⅰ部 デジタル空間
第2章 空間性
はじめに
地図‐領土関係
ハイブリッド空間
デジタルシャドウと拡張現実
コード化空間とコード/空間
媒介的空間性
人間を超えた空間性第3章 都市
はじめに
都市を計算する――略史
初期の視座――サイバーシティの地理学
スマートアーバニズム
スマートシティを超えるデジタルアーバニズム第4章 農村
農村の技術
農業,産業主義,そして農村の田園風景
どのようにコードが農業生産を変化させているか――三つの事例研究
将来の農場とスマートな農村空間第5章 マッピング
導入点
歴史
議論
未来第6章 モビリティ
はじめに
特定の機能をもつデジタル技術
相互接続されたデジタル技術
自動化(オートメーション)第Ⅱ部 デジタル手法
第7章 認識論
はじめに
歴史,地理学,デジタルなもの
視覚への偏重と資本――さらなる二つの認識論的批判
おわりに――普遍的な認識論に抗う第8章 データとデータインフラストラクチャー
はじめに
デジタルデータと地理学研究
データインフラストラクチャー,オープンデータ,API
クリティカル・データ・スタディーズと地理学研究第9章 質的手法と地理人文学
はじめに――同時発生的であることについて
歴史的文脈と主な論争
デジタル人文学/空間人文学/地理人文学
子どもと若者の地理
潜在的な将来の動向第10章 参加型手法と市民科学
はじめに
参加論的転回とデジタル論的転回
デジタルな参加型手法
主要課題
今後の展開第11章 カルトグラフィーとGIS
はじめに
歴史的文脈――編み込まれた流れ
世界の地図学的モデル
高度に対話的なプロセスとしてのマッピング
マッピングプラットフォームとしてのインターネット
コードの重要性の高まり
ありえる未来第12章 統計学,モデリング,データサイエンス
はじめに
歴史的文脈
現在の議論
実現可能な未来
おわりに第Ⅲ部 デジタル文化
第13章 メディアと大衆文化
はじめに
デジタルプラットフォームの台頭
デジタルプラットフォームとコンテンツ制作の論理
デジタルプラットフォームとミクロ文化
デジタルプラットフォーム,ミクロ文化,情動
デジタルプラットフォームと大衆文化を研究する第14章 主体/主体性
はじめに
データと監視下の主体
誰が(デジタルな)主体とみなされるのか?
おわりに第15章 表象と媒介
はじめに
表象とデジタル地理学
デジタル地理学と媒介
今後の方向性第Ⅳ部 デジタル経済
第16章 労働
はじめに
歴史的な文脈づけ――新旧のシルクロード
デジタル労働
デジタル労働の空間を再考する
おわりに第17章 産業
はじめに
デジタル産業の成り立ち
デジタル産業の地理
デジタル産業の次なる一歩第18章 シェアリングエコノミー
はじめに
歴史的文脈におけるシェアリングエコノミー
共有についての言説
デジタルプラットフォームの役割
分配としての共有?
今後の展開第19章 既存の産業
はじめに
既存産業とデジタルなものの変革的な性質
デジタル化によって破壊された三つの産業――小売業,金融業,製造業
おわりに――地理は有効である第Ⅴ部 デジタル政治
第20章 開発
はじめに
略史
理論的アプローチ
主要な議論
今後の展開
おわりに第21章 ガバナンス
はじめに
デジタルガバナンスの初期形態
社会‐空間的関係のデジタルガバナンス
規律訓練から制御と予測へ
おわりに第22章 市民論
デジタル市民論の出現
市民権のデータ化
デジタル市民論の空間化
デジタル市民論の企業化
デジタル市民論の新たな反抗的利用第23章 倫理
はじめに
公共空間の商業化のためのツールとしてのデータ化
集団と個人
データ倫理の課題第24章 知識政治
はじめに
地理空間的知識の政治学
アクセスの問題――デジタルインフラストラクチャーと物質的不平等
認識論的バイアス――アクセス,視認性,権威
デジタル知識のより広範な政治的・物質的効果
おわりに第25章 地政学
地政学とデジタル地理学
歴史
論争
将来の発展監訳者解題
索引
「第1章 デジタル・ジオグラフィーズへの招待」は今振り返ると地理学者が地理学の広範さと合意の不安定さがあることから書かれた章に見えてくる。自分たちの論点がよって立つところを最初に定義しておかないと道に迷うということだ。最初に読むときは斜め読みでよいだろう。
「第Ⅰ部 デジタル空間」からは気が付かされる点が多かった。私は都市生活者で、「第4章 農村」にある「経済的に発展した国家では、大多数の人々は都市に居住しており、都市の後背地の先で起きていることが見落されたり、低く評価されたりしがちである」は私の視点を突いている。差別的であってはいけないと心していても、見落としで認識できなければ無価値と評価していることと同じ判断を導く。第Ⅰ部ではEsri社の話も出てくる。デジタル化で何が起きてきたのかを振り返ることができるところは有用だが、デジタル・ジオグラフィーズの視点をどこに置けばよいのか迷うことになった。この書籍では視線は意図的に固定的でないようにしているのだが、そういう論理展開に慣れていないこと気が付かされた。つい、解くべき問題があり、そのゴールに向けて主となる視点を固定し、いくつかのサブ視点を設定しながらゴールに至る最短経路を探るのがソフトウェアエンジニアの基本となる。問題を解く(ソリューションビジネス)という視点ではなく、対象をありのままに捉えて理解しようという考え方になかなか馴染めない。しかし、ソリューションビジネスは部分最適解の探索だから、その視点ではそのままの現実を捉えることはできないのである。
「第Ⅱ部 デジタル手法」にある「歴史、地理学、デジタルなもの」(P86)では「地理学における計量革命の初期のメンバーは、認識論的に経験主義と実証主義の立場にたった。(中略)計量革命の初期のメンバーはそれらを統合して、知識と現実世界の間に「同型の対応関係」があると考えた」と書かれている。合理的に思われる考え方だが、進めていくと行き詰まってしまったということだろう。「同型の対応関係」があるケースが大半であっても常に成り立つとは言えないのは想像可能である。人間の認識は事実と異なることはしばしばあるからだ。「第10章 参加型手法と市民科学」でその考え方がナイーブであることがわかる。私はそういう意味でナイーブかつ楽観的だが、その考え方に立っているのは自分が置かれている環境がある軸で評価すると優越的な位置にいるからだ。だからといって、その視点に立つのがだめだというわけではなく、その背景や限界を認識しなければいけないという警句に満ちている。まどろっこしいが、大切なことだ。
「第Ⅲ部 デジタル文化」にはSNSの話も出てくる。例えば、Tweetは発出された位置および時間があり、統計的手法を応用すれば、様々な相互作用を分析することができる。経験主義と実証主義の話を改めて考えさせる。事実とTweetは違うのだが、ナイーブに「同型の対応関係」があると思い込んでしまうとフェークニュースの罠から逃れられない。実証はコストが高いので、デジタル化による情報洪水はとんでもない影響を及ぼしてしまうことに気付かされる。力関係を増幅させる。言い換えれば、強い立場にある人が権力を独占しやすくなる傾向があるということだ。恐ろしいことに、デジタルは独裁を指向する人の味方になりえるということだ。インターネットの登場で、事実の確認が容易になり独裁者の嘘や情報統制は無力化されるという夢は一面的な見方に過ぎなかったことがわかる。
「第Ⅳ部 デジタル経済」でシェアリングエコノミーの話も出てくる。オープンソースプロジェクトやコワーキングムーブメントとも関連するが、人々の意識あるいは常識の変遷の影響を大きく受ける。冷徹な学者の目で見た時に、何が起きているのかが見えてくる。悲観的になりそうだが、決して否定されているわけではない。
「第Ⅴ部 デジタル政治」もある意味で容赦ない論理が展開されている。結局は、いま優位に立っている状況(西洋の認識論的枠組み)を守るために地理空間情報が用いられている現実が記されている。
本書ではポストコロニアルという見慣れない単語が頻出し、西洋の認識論的なバイアスからの自由を志向しているが、実際にはそういうバイアスから自由になれる可能性は低い。著者らも十分わかっていて、結局は多様な背景をもった人たちが取り組む必要があるというのが結論になる。フェミニズムという言葉も頻出する。
地理学者の善意と言うか、誠実であろうとする心意気が感じられる本だと私は思う。