ヨハネ伝15章

今日の砧教会のテキストはヨハネ伝15章だった。

記憶は定かではないが、ディオクレティアヌスの迫害下にあったことで結束を強めるためにヨハネ伝が書かれたという背景情報が提示された。迫害下のテキストという考え方には合理性があると思う。ただ、そういう目的があるテキストは事実より解釈あるいは意図が優先してしまう。だから、ヨハネ伝15章のイエスの説教は、実際の口述とは異なっている可能性を否定できない。ヨハネ伝が共感福音書と区別されるのは、そういう疑義があるからだろう。

牧師は、そういう箇所にも肯定的な解釈を与える必要があるから、無理やりな解釈をしていたが、分析的に読めば完全に論理破綻していた。本人も自覚はあるだろう。その上で、現代の信徒にとってどう読めるのかという解釈があれば説教になるのだが、残念ながらというか、今の彼には無理なのだろうが、メッセージ性はゼロだった。しかも資料は過去の使い回しで職業牧師に堕している。一度、道を外してしまうと容易に戻ることはできないのだろう。何とかならないものだろうか?

今日の箇所について、私は3年前に新生活32週目 - 「イエスはまことのぶどうの木」新生活33週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」で書いている。ハイライトは以下の通りだ。

教会につながっているということが「イエスというぶどうの木につながっている」ということなのかという問いにもなるのだが、やはり「もっと根本的な生き方の問題」と捉えるのが適切なのだろう。

今日、改めて同じ思いであることを自覚した。私は、金井美彦のために祈らない訳にはいかない。

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