新生活33週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」

hagi2021/05/09(日) - 10:16 に投稿
第1ニカイア公会議を画いたイコン。アリウスが下方の闇に画かれ断罪されている。(メテオラ・大メテオロン修道院所蔵)

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第6主日 (2021/5/ 9 ヨハネ15章9-17節)」。先週の箇所の直後である。

新共同訳の聖書では、9節からの箇所に見出しはないが、福音のヒントでは「愛にとどまる」という題が与えられている。まずは、箇所を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ15・9-17

 9〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

12節、17節に「互いに愛し合いなさい」という言葉が出てくる。一度目はこれがわたしの掟であるとあり二度目は命令であると書かれている。この「互いに愛し合いなさい」というワードでGoogle検索すると、膨大な量の説教がヒットする。ヨハネ伝13章にも同じ言葉が使われている。一方で、この言葉は他の福音書には出てこない。福音のヒントは「15章以下はおそらく後から拡大された部分でしょう」としている。私に聖書学の知識はないが、改めて読むとこんなシーンは無かったのではないかと思われてならない。

直感的に「互いに愛し合いなさい」という掟、命令は適切な気がする。まあ、仲良くしなさいというメッセージは好ましい感じがする。

愛に関する掟として共観福音書で出てくるのは、マルコ伝12章28節からの「最も重要な掟」が印象に残っている。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

第一の掟、第二の掟はこれと考えてよいだろうと思っている。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」は、この教えとは微妙に違っている気がする。最も需要な掟は「あなたの神である主を愛しなさい」=神を愛せで、二番目は「隣人を自分のように愛しなさい」=隣人を愛せで、一人の人の行動規範を規定しているのに対して「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」は集団の行動規範を規定している。教会の存在が想起される規定である。邪推すれば、教会では会員の意見は一致しないのが常だから、教会を維持するために互いに愛し合いなさいというルールが必要になったのではないかと感じられる。イエスが本当にそんな命令をしたとは私には考えにくい。

現実には、集団としての行動規範は不可欠である。同時に、集団を形成すると内側と外側が生まれてしまう。集団の形成はどうしても必要だが壁を作ることになる。ルカ伝では「最も重要な掟」は、イエスが言ったのではなく律法学者の発言の追認の形で「善いサマリア人」の最初の部分で書かれている。どの集団に属しているかと愛は関係がないと説く話になっている。ただ「善いサマリア人」も平行箇所がなく、どこまでが史実であったかはわからない。いずれにしても、個と集団の関係は解けることのない問題を生み出すものだと思う。集団を形成しなければ専門的知識を有する人の養成も困難だし、別種の集団から攻撃や迫害を受けた時に同好の士を守ることができない。集団が育つと序列が生まれる。

カトリック教会は、正統性維持の問題を抱えながらもほぼ2,000年を生き抜いた。組織化は序列を生む、そしてその弊害を軽減するために聖座という言葉がある。人と地位を分離しようとしているのだと理解している。正教会も同じように残っている。日本正教会の東方正教会の歴史を読むと「七つの全地公会」に触れていて、教義の解釈は一致しないのがよく分かる。一歩間違えれば戦争になり、短期的には強いものが勝つ。しかし、無名の多数の信徒は一人ひとり心を持ち、一人ひとり違う解釈をする。組織の判断がおかしいという思いが出るのは避けられない。組織の統制を維持するためには破門判定は避けられない。実際に命が奪われるようなシーンもある。「互いに愛し合いなさい」は教会の権力に服せというメッセージでもある。組織は序列を生み、時に生殺与奪権を特定の人間や少数のインナーサークルに与える。そして、役割を担う人は、自分が特別な存在だと勘違いしてしまうケースが繰り返されてきた。スタート時点では善い思いで始めても、破壊的な最後を迎えるケースは少なくない。現実は厳しいのである。

とは言え「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」は素直に受け入れてよいだろう。ただし、事実には誠実に向かい合わなければ、一歩間違えれば組織の権力者の人生を誤らせてしまうのだから「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」を自分の行動規範とするのが適切だと思う。忍耐強く真実を求め続けていくのが良い。「隣人を自分のように愛しなさい」も耳障りは良いが、実際には不可能な命令である。それを規範として誠実に歩みを進めようと努力していく以外の道はないだろう。改めてこれらの掟について考えると、人はみな神の前に平等だと思う。教皇だろうが、政治家だろうが、市井の一人だろうが、等しく非常に高いハードルが設定されていることに変わりはない。

※画像はWikipediaの第1ニカイア公会議経由でwikimediaから引用したもの

Twitterシェア