最初の見出し「第一章人権とは?――「思いやり」と「人権」は別物だ」が印象的だ。言われてみれば、当然なのだが、私自身「かわいそう」という気持ちと人権という人の気持ちに依存しない権利の区別がついていなかった。
人権の存在は、信仰に近い。人が生まれながらにして持っている権利は何かという問いだからだ。そんな権利は何も無いという意見もあれば、限りなく理想的な共産主義に権利を重ね合わせる人もいるだろう。人権を尊重する人は「そんな権利は存在しない」という思いを尊重しないわけには行かない。だから、力関係で見れば人権を求める勢力は圧倒的に不利だ。
現実問題として、差別行為はなくなることはない。差別行為でどれだけ傷ついているかは本人以外にはわからない。暴力行為でさえ事実検証ができるとは限らないのだ。だから、人権の確立は至難の戦いである。
とは言え、人権を高めようとする動きは思いの外強い。差別を受ける人がいなくならないから、その動きも止まることはないのだ。私のBlogに山程の罵声を書いてくる人も罵倒することで精神を保っているのかも知れない。少なくとも、そのエネルギーはどこからか来ているのだ。勝手に推定すると不快に思われるかも知れないが、私がBlogを書くエネルギーの元とそれほど遠くないのではないかと思う。
第3章に「一九二〇年代から三〇年代においては、経済危機、貧困、広がる不平等が右翼ポピュリズムの土台となり、それが戦争につながった。そのため第二次世界大戦の終わりには、独裁主義の誕生とその存続を可能にする経済的社会的要因を排除する必要性が認識されるようになり、すべての人に対する適切な職業への権利や手ごろな価格の住居への権利などの経済的、社会的、文化的権利が考案された。それらはのちに、世界人権宣言や社会権規約に規定されたのだ」と書かれている。独裁政権はどうしても敵を必要とする。極論すればラスボスを倒してしまうと解散する以外の選択肢はない。しばらくは、気が付かれずに済むかも知れないが、長く人民を騙し続けることはできない。だから「最も深刻な人権侵害は貧困」という主張は正しい。相対的貧困率が高まれば、被差別感は高まる。高まった時には食うや食わずだから自分の力でなんとかできると思えなくなっている。だから、自分ではない誰かに頼ってしまうのだ。本物も存在すると思うが、99.9%はまがい物で、壺を買わされたりする悲惨が待っている。キリスト教会でさえ免罪符の歴史がある。
第5章 情報・表現の自由の「国連人権機関から問題視されている特定秘密保護法」の下りも示唆に富む。勝ち馬に乗ろうとする人が一定数を超えればレギオンの豚になるということだ。
一読をお薦めする。