大きな転機にどう対処すればよいのか

新型コロナが社会に与えた影響は極めて大きい。特にワークスタイルに与えた影響は甚大だと思う。

日本に限らず、世界中でテレワークが進み、急激な変化が起きたことで様々な歪が出ている。

今日目にした2つの記事は示唆に富む。一本目はイギリスの従業員の帰属意識に関する記事。

Three in five workers are disengaged and costing UK economy billions, study finds - 6割の従業員が意欲を失い経済に大打撃を与えている -

ざっくりまとめれば、やる気を失った従業員が増え、企業の能力が低下している。離職も増え人手が足りないのでやる気が無い従業員にもボーナスを払うなりしてつなぎとめをはかり、さらに状態を悪化させている。オフィスに集まらないから帰属意識が高まらないと保守的に考えて出社を促しても、一度心が離れた従業員がもとに戻る可能性は低い。元に戻すのではなく着眼点を変えないとだめだろう、という風に読んで良いだろう。

今まであたり前のことだと思っていたことに疑問を持って、もう一度自分が何をやっているのか考え始めれば、ひょっとしたらもっと良い道があるんじゃないかと考えるのは自然なことだ。でも、考えても簡単に道は見つからない。元の場所も輝きを失っている。良い方向に向かうことはない。とりあえず、気合が入らなくてもしがみつく人もいれば、短期的なメリットに注目して転職する、ギグワークに転向する人もいる。少し長い目で見れば、気合が入らなくてもしがみつく人が多い会社がうまくいくわけがない。経営者は金のなる木を探す。コンサルタントの助けを受けて有望な企業を買収しようとするケースもある。収益で部門を見るようになると、人材育成に注がれる金は減り、光の当たる人以外の人間を人間として見なくなる。少なくない個人が勝ち馬に乗ることを考えるようになる。しかし、その向こうに明るい未来など無い。

企業から見れば一人の従業員だが、生活者から見れば、自分の人生の明日が今日よりより良いものにするのが喜びとなる。人との接点があれば競争関係が働いて頑張れる面がある。上手に競合環境を設定して能力を引き出せれば成果につながるし、従業員の成長に資することもあるだろう。ただ、競争はある種の集団ヒステリーだから、目が覚めるとその充実感が幻想に過ぎなかったり搾取されていたことに気がつくことがある。この記事が示しているのは、環境激変で個々人の目が覚めたという現実を示しているのだと思う。

ただ、問題は次にどうするかで、次が見つからなければ誰もしあわせになれない。

2本目の記事は、アメリカで中小ビジネスが苦境を迎えている記事。

The rent crisis on Main Street just took a turn for the worse - 目抜き通りの賃貸物件危機には悪い予感しか感じない -

レストランや小売業などが賃料を払えなくなってきていて、一時はやがて元に戻ると言っていた経営者がだめかもしれないと言うようになってきているという話だ。アパートの賃料はピークを打ったようだが、下がり方がどう動くかは予断を許さない。

世界中でコロナによる経済崩壊を防ぐために強烈な金融緩和を行ったから、不動産に金が流れるのは自然なことで、低金利で借金して不動産を買いあさり立派な物件に仕上げて店子を迎えれば良い。金が回ればインフレが進み、崩壊前に売り抜けることができれば大儲けだ。ただ、アメリカで見る限りその祭りは終わった。今後は、低金利で借りることはできず、低金利で調達した借金の返済期限が来たら借り換えは容易ではなくなり、賃料が得られなければ大家は破綻する。

日本は国として借金大国で心配だが、ここではそれは問題としない。

まあ、口にすることもはばかられる悪い予感はおそらくあたるだろう。

何かやばいことが起きている時には、一度距離をおいて見ようとした方が良いと思う。

コロナに関して言えば、これまでの数字で見ると世界で累計感染者延べ数は6億人で死者は650万人。約100人に一人が亡くなっている。本日付前日比だと、66万人の感染者に対して2,500人の死亡者だから、約260人に一人が亡くなっている計算。日本では、15万人対300人だから、約500人に一人の比率になる。累計でも1/475と状況は比較すればよいが、決して無視できるような割合ではない。感染者の30人に一人程度は後遺症に悩まされるという仮説が正しければ、そのパフォーマンスが5割減となるとすると、日本では64万人の半分、32万人の生産性が失われることになる。先進国では、人的パフォーマンスは確実に減少期に入っていると考えないわけにはいかないし、時間が経過すればするほどその効果が健在化してくる。引いて見れば、経済成長は見込めない。つまり、見せかけの経済成長は小さくなりつつあるパイのぶんどり合戦にすぎない。

基本的なポリシーとして、ぶんどり合戦に血道を上げるという考え方と、どんどん落ちつつある生産力を大事にするという考え方がある。今の時代の風はぶんどり合戦側に傾いている。ロシアはウクライナに侵攻し、アメリカの資産はごく僅かな人によって多くが所有されている。権威主義国であれば、見せかけの数字とは別に独裁者の手にその資産が握られている。独裁者に奪われないようにするためには強いリーダーに頼るしか無いという論調も肯定的に受け止められる傾向が見られる。

貧困に落ちてしまえば、生きていくことが第一関心事になり、共同体の将来を考えることは難しくなる。現実には、誰かに頼るしかなくなり、しばしば扇動者の罠に落ちる。扇動者が力を持つようになると、扇動者に忖度しないものは不利益を被るようになる。実質的な格差が拡大し、貧困層に眠っている潜在的な可能性が顕在化する可能性が低下する。

本当は、生産力が落ちつつあるのだから、潜在力を丁寧に顕在化させていくのがマクロとして好ましいのだが、今成功している層以外には、まず新たなものが生まれるわけがないと思う選民思想に陥ると、金持ちの方に金が投じられることになる。投じられた金は、自分が儲けられる方向に向かうことになる。この負のスパイラルに陥れば、その集団は凋落していく。新たなものは辺境から生まれる歴史に目が向かわない。

一人ひとりの人ができることには何があるのだろうか?

まず、食えないと困るのだが、それでも社会の一員として何ができるのかを考えることが大事だと思う。特に自分で考えることが重要だ。誰が言っているかではなく、語られていることが何を意味しているのかが大事で、徒党を組まない意識を保つ必要があるだろう。

ぶんどり合戦の現実から逃げることはできないから、現実にできるのはわずかでも全体生産性の底上げに寄与する活動を行うことだ。人はそれぞれ違うから、これをやれば良いという一意の解は存在しないが、必ずできる事はある。お国のためにと考える人がいても良いと思うし、若い人や老人の可能性を拡大するために力を使う人がいても良いだろう。コミュニティ活動は有効だと思う。閉鎖的であったり差別的な集団は危険だと思うが、その集団に依存さえしなければ良いと思うことは何をやっても良いと思う。金を出すのも良いと思う。個人的には、統一教会に献金するのも参加するのも個人の自由だと思う。集めた金の使いみちに対する意思決定の適切性に関しては相応の注意を払わなければいけないと思うし、組織あるいは人に対する強い依存が疑われる場合には、外部からの介入が必要な場合もあるだろう。宗教の是非ではなく、(洗脳や各種の破壊を含む)宗教組織の活動の是非を問うべきだろう。何をやっても残るものは残る。

私がとても大事だと思うのは、選民思想にNoを突きつけ続けることだと思う。選民思想は英雄や独裁者を生み、まず選民以外に不幸をもたらし、やがて破綻して選民をも不幸にするからだ。

企業に就職し、オフィスに共に通うようになり、一定の成功を収めると、帰属意識が生まれる。それは活力の元となるが、それが選民意識に結びつけば滅びの元凶となる。事業が社会貢献している実感があれば帰属意識がなくても活力は得られる。最初に引用した記事で、社員が意欲を失った会社は事業に対する魅力が足りていなかったということだと思う。逆に言えば、今は意欲がわかないがかつて当たり前のように働けていた従業員は企業(企業コミュニティ)に依存していたと言うことだろう。生きていくためには妥協は避けられないが、自分のことしか考えなくなってしまうと、呪縛が解けた時に活力が残らない。自分が社会で存在している意義を見失うからだと思う。もちろん、生きているだけで意義があると思うが、自己肯定感が低下してしまう。依存関係で得られていた幻想の自己肯定感が失われてしまうからだ。

2番目に引用した記事は、ぶんどり合戦に明け暮れていると本来生産的活動に寄与できる人を排除してしまうというもう一つの現実を示していると思う。社会・コミュニティの破壊だ。多分、こちらの問題は、個々人では抗えない。独占を許さないシステムを作り上げていくしか無いだろう。必要なのは、いま力を持っている人が、選民思想に陥らないようにする仕組みだ。選民思想は搾取を正当化する。

コロナのような環境の激変がないと、時代はなかなか動かないが、激変が起きる時には依存症が深刻化する可能性も高まる。既存秩序に対する依存に持続性がなくなるのだが、その不安に保守思想、選民思想がつけこむからだ。そんなものに持続性などないのだが、なかなか新しい道を選ぶことはできない。

一人ひとりの人ができることは、広く相異なる主張や定量的なデータを収集して自分の頭で考えて、そして誤りが残っていたとしてもその考えを言葉にすることだと思う。その上で、自分の進む道も社会的決断への関与を決めていけば良いと思う。今ほど言論統制や思想統制が緩んでいる時期は稀だ。技術的な環境も整っている。結局の所、一人ひとりの人が自分の頭で考えなければ未来は良くならないだろうし、一人ひとりが自分の頭で考えることでよりよい未来を作る活動に参加できるのだと思う。それは自分のためでもあり、愛する人達のためでもあり、自分の知らない人達のためでもある。