ひょっとすると社会が崩壊しつつあることが可視化されていないのかもしれない

hagi に投稿

自分の身の回り、仕事関係でもコロナ陽性でリスケが必要になったりするケースはあるし、自然災害の影響を受けている人もいる。調理を仕事にしている人で味覚障害で仕事を失った人がいるという話も聞くし、様々な理由で職を失い、家賃が払えなくなって安価に身を寄せられる場所で暮らしている人の話も聞く。インバウンドを想定していた宿泊施設で値崩れしていることで集まってくる人もいると聞く。中には、犯罪に手を染めてしまう人もいて、事例を聞くと心が痛む。

みな、一生懸命生きていて、大変な時期、追い詰められると他人のことを思いやってはいられない。経営者は従業員を大事にしたいと思っても事業が成り立たなければ守り切ることはできない。溢れてしまった人に残される道はリスクの高いものが多くなる。

企業あるいは企業の従業員の視点で見ると、労災の適用が気になってくる。

コックを雇い、職場で感染して味覚障害が残れば、労災の適用が妥当に感じるが、実態がどうなっているのかは私は知らない。システム開発に携わる人であったり、研究者であればブレインフォグが長引けば、仕事を続けるのは困難になるだろう。知識産業に関わらず、健康が損なわれれば将来は変わってしまう。

一定以上の従業員がいる企業だと、従業員を数で管理しないわけにはいかないし、理由に関わらず退職した人に対するサービスは劣後してしまう。多くは忘れ去られた存在になり、同僚がその苦境を知っていてもどうすることもできない。政府は企業や雇用を守ると言うが、その保護の対象から漏れる人がかなり増えている可能性があり、今のコロナ政策を続けていれば仕事を変えなければいけない人、仕事につけない人は増え続けることになる。私は人権軽視国家になってしまったと悲しく思っている。

現在の行政の制度は間接管理が基本になっている。個人は世帯の構成要素として把握され、あるいは個人は企業の従業員として把握されている。法人にも属さず、居所を失った人は行政の視野に入らない。つまり公助は機能しない。共助も機能しないケースもあるだろう。逆にロビー活動が行えるような業界や、大きな企業は声を上げることができ、企業を守るための金を政府に求めることができ、言ってみれば強いものから救われる社会構造となっている。弱いものにしわ寄せがいくという主張をよく耳にするが、むしろ弱いものは見ない仕組みになっている。生活保護を受ける人は人生の敗者として考えるようになれば社会参加は困難となり、ただでさえ少子高齢化で社会の活力が失われているのにさらに事態は深刻化してしまう。

技術的には、既に間接管理ではなく直接一人ひとりを把握できる時代は来ている。例えば宗教二世問題だって親に内緒で不満を表明することは可能だし、被害が出た時に不正行為を探る情報をプライバシーに配慮しながら収集することだってできる。企業に属していなくても、住所がなくても人権確保の道を提供することも可能だろう。

問題は、できるのになぜしないのか、という点にある。簡単に言えば、政治家にその意志が無い、あるいは優先順位を劣後させているということであり、主権者がそれを求めていないということだろう。

目に見える隣人愛と、科学的に考える隣人愛は違うのだ。目に入る人を救う行為は美しいが、人権を守るシステムを確立するほうがずっと結果は大きくなるだろう。身内を守ろうとすると、生き残れない人は増え、身内を守ろうとした人たちの中にも脱落者がでるのは必至。国家が国民を間接管理をするような時代は過去のものとして、国民が個の権利を確保するために国家が責任をもたなければいけない時代に変えていかないといけないと思う。