地方創生再考

hagi に投稿

テレワーク協会の地方創生テレワーク研究部会にメンバーとして参加している。

ふと気になって、地方創生ってなんだっけ?と疑問を持ったら、明確な定義がない。法も意味不明だった。「地方創生 定義」で検索すると「意外と曖昧な「地方創生」の定義とは」という自治体通信の記事が引っかかったが、この説明が意味不明さをよく表している。一応、『「人口減少を克服」し、「地域経済を活性化」する』という行為を地方創生と理解して良いのだろう。ゴールはありたい姿だから、「人口減少が止まった状態」、「地域経済が活性化している状態」と捉えるのが適当という事となる。読み替えれば「地域が持続可能な状況になっていること」と考えて良いだろう。

もう一つ「地方創生」というJTB総合研究所の観光用語集の記事も印象に残った。書き出しは『地方創生とは、各地域がそれぞれの特徴を活かし、自律的かつ持続的で魅力ある社会を作り出すこと。』で、かなり明確に書かれている。(地域)社会が持続的であるだけでなく、自律的であることがゴールだと読める。深読みすれば、今は自律的かつ持続的な状況ではないから、自律的かつ持続的な状態に至るまで税金を使うことという意味になる。うがった読み方をすれば「まち・ひと・しごと創生法」はバラマキを正当化するための法律なのだな、となる。

もちろん、「地域が持続可能な状況になっていること」は望ましいことだから、やれることならやった方が良い。

まず、人口減少はいつ始まったのかと考えると、特殊合計出生率が2.0を切った1975年とするのが一般的な考え方だろう。1971年から74年が第二次ベビーブームとされているて、第一ブームとの間隔が約25年だから、2000年頃に第三次があっても良いのだが、そういうことは起きなくて、合計特殊出生率は1.5程度。第二次ベビーブーマーが20歳になった頃にバブル崩壊が起きているので、将来に不安を感じていたのかも知れない。その後、さらに出生率は低下して2020年は1.34。世代間隔が30年に伸びていると仮定すると、30年後の世代人口は1.34/2=67%ということになる。ざっくり2/3だ。

全然別の見方をすると、人口一人あたりの農地面積は、日本が3.5a(350$m^{2}$≒19m四方)で欧州諸国は20a程度(45m四方)、アメリカは126a(113m四方)。日本の人口密度はアメリカの約10倍、ドイツの1.5倍程度である。農地が増えないとすると、農業生産性を高めたとしても、一人あたりの農地面積が10a程度が必要だと考えると日本の人口が今の3分の1位だとあまり無理をしなくても持続可能になるという見方もありだ。今の人口が1億を超えているから、何が何でもそれを維持するのが正しいと考えるのは合理的だとは思わない。成長期と違って縮退期は痛みを伴うから、現状維持を目指したくなるのはわからないでもない。でも今の人口減少だと60~70年もすれば、3分の1位になるわけで適当なところでまた出生率は上がるかも知れない。現状維持を目指すのではなく当面の人口減少を所与として将来計画を建てるほうが正解の可能性もある。

ちなみに、中国の人口密度は日本の2分の1以下で、総人口は多くても、自給自足可能性はずっと高いということになる。

先週、用があって岩国市玖珂町で2日間過ごしたが、町の人は自分の町を都市部と比較して田舎だと考えているように感じたが、都市部から帰郷した人が住んでみたら別に不便じゃないとおっしゃっていたし、Amazonが機能する物流が機能していれば、自分が住んでもそれほど困ることはなさそうに感じた。一人あたりの面積は約20aだから、エネルギーがなんとかなれば自給自足が可能な密度と言える。一方、私が住んでいる文京区は0.5a程度で、そこだけを切り取れば自給自足などありえない。確かに便利だし、子供もたくさんいるし、住みやすいと思うが、考えようによってはかなり危ない状況にある。

私は、自給自足を目指すべきだとは考えてはいない。グローバル化推進指向論者だから場所場所で適切な分担をすれば良いと思うけれど、玖珂町にいた時は、この位の密度の方が人間らしい暮らしがしやすいのでは無いかと感じた。だから、玖珂町は年齢分布的に適切な構成が取れれば、良い感じの町として持続可能なんじゃないかと感じるのである。

一方、IT環境は激変し、居場所を選ばないリモートワーカーはやがて人口の5割を超えるだろう。そうなると、企業の登記地、納税地と物理的なオフィスの存在は一致している必要はなくなる。例えば、私の場合は自治体がハンコを要求したり実際に役所に来ないといけないような問題が解消されれば、自分の会社の登記を玖珂町に移しても何ら問題は生じない。東京都の均等割は地方に比べて高いので、むしろ節税になる。玖珂町に登記を移すことに何か魅力があれば、私自身が現地に行く機会が僅かだったとしても納税地として玖珂町を選ぶことに抵抗はない。実際、私はe-residentを申請してエストニアで会社を立てている。デジタル・ガバメントが機能していれば、法人の物理的な場所は問題にならない時代である。私がエストニアで会社を立てた理由は、世界でそんな形で会社を立てられるところはまだ無いから、ぜひいち早く体験したいと思ったからだ。ユビキタスライフスタイル研究所で取り組む価値もあると思ったからでもある。

改めて、地方創生って何を意味するのだろうか?

私は、第一はそこに住んでいる人が持続的に幸せでいられることだと思う。だとすると、経済的に成り立っていることと、地域の人口、年齢分布が許容範囲に留まっている必要があるだろう。地域で育った人が、地域に住み続けながらリモートワークで他の地域の会社で働いても良いと思う。玖珂にいながらエストニアの会社で働いたって収入が得られるのであれば良いだろう。むしろ、外で稼いでくれながら町でお金を使ってくれる人の存在は町にとってありがたいと思う。観光立国というような言葉もあるが、経済的な視点から見れば、観光客が来て町にお金を落としてくれれば地域が潤うという話なのだから、外で稼いだ金をここで使ってくれという構造で見れば変わらない。逆に、町で使われたお金が、例えばフランチャイズなどで地域外の会社に吸い取られてしまってお金が落ちてもちっとも潤わないというケースもあるだろう。エストニアのように全く人がいないけど商売はそこにあって、税収に貢献するケースもある。彼の地では、デジタル・ガバメントそのものが地方創生活動のようなものでもある。

私にはどうも「まち・ひと・しごと創生法」は筋が悪いように感じられる。インターネットの普及によって、経済活動と場所の一致度はどんどん低下しているのだ。物理的な場所を見た施策も必要だとは思うのだが、時代を見据えれば、ビジネスの構造改革に金を使わなければ、経済が伸びる方向に動く気がしない。マイナンバーカード(電子証明書)を任意取得にして行政目的に利用限定した日本と、eIDを義務化してオープンにしたエストニアを比較して考えると、私は日本は致命的な失敗を犯したと思われてならない。お上が国民を管理する国日本と権利は個人にあってお上はそれを守るためにある国エストニアの制度差は大きい。過去の蓄積があって日本はまだ豊かさを感じられるが、実態はかなり傷んでいる。まあ、私が言っても何が変わるわけではないから、ある制度をできるだけ活用して、他の地域と違う何かで魅力を作っていくしか無いだろう。同じように観光に注力しても短期的な成果しか得られないだろうから、私はワーケーションは徒花だと思う。それでもワーケーションを真剣に考えることで、本当に差別化できるようなことが探せるなら出口が見つかる可能性はある。

縮退期は、寄らば大樹の陰という考え方が多くの犠牲者を産む。人口密度500人~1000人/$1km^{2}$程度の地域に大きなチャンスがあるのではないかと思う。きっと、人口密度をやたらとあげようとしない地方創生の道はある。そして、総人口が減少しても住みやすい国を作ることはできるだろう。もちろん、マンハッタンのようなところもあって良いと思うが、年をとっても多くの人が快適に過ごすことのできる街には多分できないだろう。