油断大敵

先日NHKスペシャルの「開戦 太平洋戦争〜日中米英 知られざる攻防〜」を見て、なんてひどい時代だったのだろうと思った。当時は、国が違えば人間を人間として見ていなかった、あるいは見ていれば生き残っていけない時代だったのだ。
欧州はナチス問題で、米国はベトナム戦争で今の人権に目覚めたのだと思う。情報化が進み、性、人種、民族、国籍や宗教によらず人を人として見ることができなければどれだけの悲惨がもたらされるのかに気づくことがでるようになった。その悲惨を経て、『日本的陰惨さはいつ消えたのか』にあるような「名誉が・仕事が・国家が・貞操が・etc...が命よりも大事である、という意識」が2世代程度をかけて生存権を最低条件とする人権重視に書き換わった。素晴らしいことだと思う。
しかし、油断はできない。力で世界を支配できると考える考え方は消えない。「国(実は国でなく権力者)を守るために命を捧げないのは犯罪者扱いして良い」≒「あんな人たちに負けるわけにいかないんです」という勇ましさに隷従してしまえば、いつしか「名誉が・仕事が・国家が・貞操が・etc...が命よりも大事である、という意識」が再び力を持つようになってしまう。
時計の針を戻したい人がいなくなったわけではない。例えばオリンピックは平和の祭典などとブランディングしているがナショナリズムを煽るイベントそのものだ。推進している人たちの行動を見て危うさに気がついたほうが良いと思う。悪魔はしばしば美しい姿で神々しく、邪悪さを気づかせない狡猾さがある。それに操られていてもわからない。誰ひとりとして私は大丈夫というような人は存在しないのだ。油断大敵。

一度は悪魔に操られてしまったとしても、正気を取り戻せるチャンスがあるのは退役軍人から学ぶことができる。その人が誰かを殺してしまった罪は決して消えることはないが、その事実と無関係に良いことを進めることはできる。同じようにいじめや過去の悪行の罪が消えることは無いが、だからといってその人の未来が消えるわけではない。ある種の役割を担わせるべきではないという判断はあるだろうが、その人が人間であることに変わりはない。罪を認めることができたなら、他より厳しく監視されるのはやむを得ないが、何度でも再チャレンジの機会は与えられたほうが良い。その時、被害者の赦しが消極的であっても必要となる。それは「愛」である。事実をなかったことにする必要はない。逆に事実をなかったことにしている間は愛が働く機会は到来しない。

多くの人が事実に向き合うことができる社会は愛が働きやすい。戦争の悲惨さが一時愛が機能する時期を導いたが、もう乗り越えたと慢心してはいけないと思う。