今回の米国出張で、DrupalConではブラウザの音声読み上げの事例を見て、いかに見た目がスマートなアプリでもアクセシビリティの配慮がないと難視の人には使えないだけでなく、Alexaのようなスマートスピーカーと組み合わせて使えないだろうこともわかった。マウスを使わずにキーボードだけで利用できる実装にすると、ナビゲーションのステップを減らし可用性を上げられる事にも気がついた。アクセシビリティへの配慮は手間のかかる作業と見るのではなく、ソフトウェアの操作性を向上させるためのチェックポイントと考えたほうが良いことがわかったのである。
GCUCでは、コワーキングとコミュニティコワーキングという言葉の使い分けが話題になって腑に落ちた。設備をシェアして複数法人が働けば、それだけでコワーキングだ。そこにコミュニティは存在する必要はなく、ただ便利で安価であれば良い。しかし、伝統的コワーキングの魅力に気づいた人にとっては違和感がある。普段話したりあったりしたことのない人とコワーキングを通じて接点を持つことによって得られる驚きや知見に気付くと自分の目が突然開いたような気になるのだ。だから、自然と多様性を尊重し、インクルージョンを標榜するようになる。この話は、アクセシビリティの話とも近い。生活習慣の違う人や言葉が不自由な人、性別の違う人と一つの空間を共有していくには、意識だけでは足りない。様々な工夫とルールを作り上げていく必要がある。そして、それは当事者だけではなく、社会に影響を及ぼしていくのだ。
出張の最後にニューヨークに立ち寄り、新たにできたハドソンヤードという複合施設を訪問した。巨大で金がかかっている大規模開発に見えたが、トイレに行くと女性の方だけが長蛇の列となっている。パートナーの男性も結構外でまっている。男性の方のトイレはほとんど列がついていない。せっかくの新しい施設なのにがっかりした。女性が長く待つということは、それだけ店に入って消費する時間が短くなったということである。空間設計が失敗していると言って良いだろう。もちろん、予想通りに人が来てくれるとは分からないから、事前に完全な設計をするのは難しい。しかし、多様な人が集まった時に総体で快適に機能するようになったら、それは幸せを増大させるだろう。
コミュニティコワーキングでないコワーキングは、しばしば排除するスペースとなっている。商売として考えれば短期的には満足度を高められるだろうが、長期で考えれば多様性を許容できる空間が拡大していくほうが世の中の幸せを増やしていくだろう。差別は、結局その人、その集団を衰退させる事になるのだと改めて感じたのであった。
気になってバリアフリーについてもググっていたら、ユニバーサルデザインに当たった。そうなんだ。バリアフリーじゃだめなんだ。ユニバーサルデザイン思考に移行できた方が望ましいのだ。