Co-Community

Open SocialというDrupalのディストリビューションがある。そのプロモーション記事に10 Steps for your first year of community buildingがあって、その中にCo-Communityという単語が出てくる。この単語が、突然私の想像力を掻き立てた。

コミュニティは、様々である。Drupalはオープンソースで、その周辺に様々なプロジェクト、コミュニティが存在している。日本のDrupalのコミュニティには醜い覇権争いの歴史がある。同じDrupal好きでも、主導権を取らなければ気に入らなくて自由なコミュニティが育ってくると排斥しようとする力が働いたりするらしい。私は、直接的な被害にあったことはないので、それほど嫌な気持ちになるわけではないが、COREの翻訳作業など、公式となるか否かの判断がうまく機能しないとコミュニティそのものの成長を阻害してしまう。

コワーキングの世界では、コワーカー、ユーザーのコミュニティを立ち上げて流れを作りたい人もいれば、コワーキングスペース、プロバイダの情報共有のコミュニティもある。成功しているコワーキングスペースは、それぞれが一定のコミュニティを有していて、コワーキングスペースにとっては顧客である。コワーキングの普及は良いことだと思いながらも、自スペースのユーザーが移籍してしまえば事業的にはマイナスだ。Co-Communityという言葉から、私が想像するのは、いくつものコミュニティがさらに関わって相互に刺激しながらお互いに成長していくようなコミュニティの連合体のようなものである。

例えば、キリスト教会で考えると、経営的には信徒、会員の献金で成り立っているわけで、各教会には教会員、あるいは礼拝出席の常連(Regulers)がコミュニティを形成している。多くのプロテスタント教会には信徒からなる役員会があり、役員会は牧師を解任できる。魅力的な牧師を招聘すればコミュニティは大きくなるが、コミュニティが大きくなれば判断は難しくなる。内紛が起きることもあるし、急速にコミュニティが崩壊してしまうこともある。また、キリスト教会にとってキリスト教の布教は使命だから、複数の教会が力を併せながらキリスト教の布教に努めることになる。教団を作ることで、各個教会からの献金の一部を集めて神学校を支援するなど、小さなコミュニティではやりきれない効果を出すことができる。ただ、階層型の人間組織は、ほぼ例外なく腐るのだ。カソリックの司教が性犯罪に手を染めたり、教団の幹部には排斥的な言動で権力を固めようとする人、あるいはグループが力をもち、教団自身の弱体化を招くようなケースもある。宗教に関わるコミュニテイで無くても、閉鎖性が高くなればしばしばカルト化する。政党の離散や集合も似たような構造を持つ。排他性が高いリーダーが力を持つと、ある程度の時間が経過したら、周りに多くの迷惑をかけた挙げ句、自壊して自分たちも不幸になって終わるのが常だ。

コミュニティの健全な発展には情報の質を保つことがかかせない。例えば、聖書があるから、キリスト教徒は心を合わせることができる。しかし、どの文書を正典に含めるかで論争が起きる。教団の維持拡大を図るには、限りなく緩くしていくしかない。譲れない本質は何かという問の答えが小さければ小さいほど、多くの人が参加できる。一方で、ゆるすぎると同じクリスチャンとは思えなくなってしまうのである。教団としてのカソリックはプロテスタントを正当なキリスト教徒とは認めていない。その狭さに耐えられずに分裂を繰り返し、また、分裂すると力がでないからまた合流したりする。コミュニティとはそういうものだ。

インターネットとWebの台頭は、改めて考え直せば印刷革命と同等のインパクトを持っている。情報の伝達速度がリアルタイムになり、修正もリアルタイムで行えるから、コミュニティの本質の記述をリファクタリングし続けることができる。コミュニティに対しても大きな影響を与える。

単立のコワーキングスペースのコミュニティやオープンソースの1プロジェクトのコミュニティといった小さなコミュニティはある程度排他性がないと盛り上がらない。人と違うという意識があるから燃えるのである。一方で、閉鎖性が高いと時代においていかれてしまう。実際には、一人の人は、プロジェクトのような小さな堅いコミュニティにも、Drupalコミュニティのようなゆるいコミュニティにも、さらには、同時にコワーキングスペースのコミュニティとか、コワーキングスペース運営者勉強会と言ったコミュニティに属することができる。文京区民とか、日本とか人間といったレベルでも共感したり排他したりするものである。

FacebookやTwitterはまだそういった人間の多面性をサポートするプラットホームとしては未熟だし、人類レベルで考えた多様性を許容するような能力もほとんど獲得できてはいない。とは言え、Slackのような自由度の高いサービスも現れてきたし、やがて教憲教規だってgitのようなもので管理される時代は来るだろう。

その体制・プロセス・ツールがどのように定石化していくのか高い関心を持っている。

最初に紹介した記事では、残念ながらCo-Communityはそういう観点で論じられてはいなくて、Co-Community マネジャーはインフルエンサーだと書かれている。それでも、Open Socialを育てているGoalGorillaの挑戦に注目していきたい。