2021/04/12 16:25

萩原高行さま

 

 こんにちは。お便りありがとうございます。拝読いたしました。

 

 主語は牧師を含む役員会です。執行機関が総会決議を尊重して教会を運営するのでこれが教会活動の責任主体と考えています。また、総会の決議は総会参加者の間の取り決めであって、私は神との契約とは考えません。

 もちろん、総会をそのような権威あるとものとみなすという考えは、十分に理解できますし、その理解を尊重すべきものと考えます。

 しかし、総会決議は絶対的ではない(より正確には軽重がある)、法的拘束力は原則持たない、そして法規は相当の議論を経て明文化されるべきもの、であると考えます(したがって、繰り返しになりますが、昨年の決議は、萩原さんが考えるほど厳格には受け取らず、方針として受け止めたというのが正直なところです)。

 私は、法治主義の前提として、法治自体が不完全であることを深く理解することが最も大事だと思います。それがキリスト教の出発点と考えるからです。律法に先だって、自由な人格神の意思があるとするのと

同様に、教会法に先だって運営主体の意思が先立ち、そのものとに教会会議が開かれるのですから、やはり先立つ主体を前提せざるを得ない、ただし、決議はその後、主体を縛る面があるのも確かです。それでも、一義的ではない。

 こうして、先立つ主体と総会の意思とは弁証法(対決、対話)の関係になります。

 今回、そうした事態がはからずも明らかになったということなのかもしれません。それゆえ、こうした議論は意味を持つと、今は思います。

 ところで、広報内容と違(たが)えると「違反」というのが、よくわかりません。単に予定を告知したのであり、そうならなかったということです。外部の誰かと約束したわけではなく、したがって責める主体はいないと思うのです。もちろん、萩原さんが、責める主体となったのだろうと思いますが、それは踏み込み過ぎのように見えます。

 結論として、総会と牧師を含む執行機関としての役員会は、本質が異なるため、上下の関係にはないと私は考えます。そして、平時は総会決議(予算、年間行事、年度方針)にしたがって執行機関が運営するが、緊急の事態においては、仮に総会決議に反しても、執行機関の判断が優先されるというのが私の考えです。

 ご理解いただけると幸いです。

金井美彦

前の書簡
次の書簡: 2021/04/13 9:49