田川建三訳著 新約聖書 訳と註 第五巻 ヨハネ福音書読了。いくつか感じていた違和感がやや解消された。
ヨハネ伝はイエス生涯伝としては、かなり問題があると思うが、思想をクリアにした点などでは共観福音書を超える学びがある。受洗した頃には、これ一書で十分ではないかと思ったほどだ。
一番違和感を感じるのは21章。田川氏は「後の付加」と書いている。原文にあたった人がそう書くのだからそうなのだろう。また、15章〜17章の全体は別の著者による挿入というのも読み直して納得感があった。14章末と18章を間を除いて読んでも話はつながるし、とても自然に感じる。以下の2つの画像は、著者が違うと田川氏が考えている表明。
これらの個所を無いことにして読んでも確かに意味は通じるし、よりクリアになる。
15章「イエスはまことのぶどうの木」から17章「イエスの祈り」までの全体が加筆との主張は、結構衝撃的だが、改めて読み直すと納得感があった。
田川氏の主張を正とすると、ヨハネ伝の著者は一人の人かも知れない。そうだとすると、イエスの教え、あるいはキリスト教の本質が示された人だったと考えることもできる。イエス伝としては事実に反することが多いとは言え、霊感によってなった書と考えても良いだろう。今の私の感覚では、だから福音書はこれだけでは良いとは思わない。複数の著者の複数の視点で見るから浮き上がってくることがある。今風に言えば、ダイバーシティの尊重なくして事実を深く見ることはできないという話でもある。
もう一つ興味深いと思ったのは、δοξάζω(glorify: 栄光化する)という言葉だ。新共同訳のマタイ5:16では「あがめる」、マルコ2:12では「賛美する」、ルカ2:20では「あがめ」と訳されている。日本語では主語がしばしば省略されるので、意識に上らないが、「あがめる」は誰かが主体的に対象を栄光化するという意味だ。神が絶対的な存在だとしても、人が栄光化しなければ実質的な力を持ちえないという考え方だろう。ヨハネ伝の思想からすると、田川氏が「栄光化する」という訳を当てたのは画期的だろう。