田川建三訳著 新約聖書 訳と註 第四巻 パウロ書簡 その二/擬似パウロ書簡読了。
この巻で特に印象に残ったのは、テサロニケの信徒への手紙二の話で、田川はこの書簡を明確に擬似パウロ書簡に位置づけている。その分類については色々な意見があるようだ。英語版WikipediaのSecond Epistle to the Thessaloniansには、2011年の英国新約聖書会議で110人中63人と多数がパウロによる執筆と見なしている。
田川は2章2節を「霊により、あるいは言葉により、あるいは我々によって(書かれた)という手紙によって、主の日がすでに来ているなどと、理性からはずれて慌てて動揺したり、狼狽したりしないように。」と訳している。新共同訳では、「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」で一見同じようであるが、この手紙は第一テサロニケを指し、その4章15節に「主が来られる日まで生き残るわたしたち」という表現があるなど、パウロが生きている間に主の日は来ると説いていることを否定するのが第二テサロニケだと解説している。つまり、パウロが死に、第一書簡が正しくないことが明らかになったことで信者に動揺が走って荒れたのを抑えるためにパウロの死後のパウロ(第二パウロ)が書簡を書いたとしている。
パウロはかなり断定的な物言いをしていて、パウロの影響を受けた当時のキリスト教徒の多くは、パウロが生きている間にイエスの再臨はあると信じた、あるいは思い込もうとしたのは想像に難くない。残り僅かしか無いと考えると、実際の生活を軽視してしまうリスクは高まる。あるいは、パウロの教えは虚偽だったと考え、イエスも否定してしまう人もいただろう。相当な混乱があったのは間違いない。田川は解説で第二パウロの意図は「要するに、終末が今にも来るぞ、と信じて騒ぎ立てている信者たちに対する警告である。そんなことはありえないので、我々は地に足をつけた生き方をしないといけない。終末論の伝統によって言われている「不法の者」が出現し、終末を予告するさまざまな現象が生じない限りは、 本当の終末が来るわけがない。今はそういった兆候なぞないのだから、我々は落着いて日常生活を過ごそうではないか、という呼びかけである。」と書いている。考え方によっては、騒ぎ立てている信者こそが「不法の者」と解釈することもでき、終末は近いと考える余地もある。結局その時期に終末はこなかったから「我々は落着いて日常生活を過ごそうではないか、という呼びかけ」は適切だったということになる。
既に約2000年が経過し、再臨と終末を信じるとしても、それがいつ来るかはわからない。ある意味で急進的なパウロ書簡より、擬似パウロ書簡である第二テサロニケを大事にしたほうが良いのではないかという考え方も成り立つ。3章6節以降の「怠惰な生活を戒める(新共同訳見出し)」の部分は、レーニンにも引用された。現実には向かい合わないわけにはいかない。
擬似パウロ書簡を真正パウロ書簡でないから価値が低いと考えるのは適切ではないということに気が付かされた。聖書に採択されたことには意味があると考えるべきだろう。
ローマ書簡に関する解説も興味深かった。田川はローマ書を「おそらく、人類の史上でも最もすぐれた救済思想の一つであろう」と書いている。その後親鸞にも触れている。
福音書はイエス伝でもあり、彼はこう言った、これを為したという話の記録で、ローマ書はその体系化案を示したものと言える。田川はパウロが当時キリスト教界の主流派だったわけではなく、一つの流派だったと考えている。しかし、文書化、体系化の功績は後のキリスト教を支えてきた。体系化された救済思想が人の心を掴んだのは間違いないだろう。しかも、旧約聖書あるいはユダヤ教の律法による統制ではなく、指針としての統制となっているので、柔軟性も高く矛盾があってもそれで破綻するわけではない。原点の「愛」だけは譲れないが、あとは時代や環境で善いことをなしなさいという話になる。第二テサロニケ3章はパウロのものではないが、それを簡潔にまとめていると捉えることができる。
翻訳に関わるということは、含意は何かを考えることでもある。訳書だからこそ見えてくることもあるのだと感じさせられる。この巻もお薦めしたい。