新生活285週目 - 「イエスとサマリアの女」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第3主日 (2026/3/8 ヨハネ4章5-42節)」。3年前の記事がある。共観福音書に類似記事はない。

福音朗読 ヨハネ4・5-42

 5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
 39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」


今日の個所を読み直して、気になったのは21節「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」で、それを受けるのは23節「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」となる。礼拝は場所には関係ないということと、霊と真理をもって父を礼拝するのが本質的だと言明している。

その後、イエスが「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」として、自分がメシアであると表明している。

加えて興味深いのは、42節の「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」という話で、きっかけはサマリヤの女の紹介あるいは伝道によって父なる神につながることができたが、その道を見つけてしまえばもはや女の仲介は不要になるという話と取ることができる。

社会的に成功している人は神に祝福された人で、そのような人に従っていけば良いと考えるのは人間としては自然だ。なぜうまく行っているのかを考え、パクれるところはパクって社会的成功を目指すのも自然なことだと思う。しかし、神の視点で見れば、その成功は意味を持たない。イエスが革新的だと思うのは、貧乏人だろうが、病人だろうが、あるいは悪を行うものであっても、真摯に神の義に聞き自分にふさわしい道を進めば、決して見捨てられることはないと説いたところにある。不正の上に社会的成功を得た人は、「霊と真理をもって父を礼拝する」時、自分が精算を求められたらという恐れを抱くことになるだろう。成功者に限らず、誰もが瑕疵を背負って生きているから、つい周りを見回して、まあマシな方だろうと思いたくなり、そう思うことができればこの程度のことは問題にならないと考えるようになってしまう。その集団が大きく、力を持ってしまうと麻痺と劣化が進む。いつのまにか、真理より保身に重点が移る。社会的成功者が守りに入れば、彼らにとって具合の悪い人たちを弾圧するようになる。専制と隷従の到来である。

サマリヤは北イスラエルの首都であり、サマリヤ人は自分たちこそが正統な神の民であると思っていただろう。エルサレム、ユダは力をつけた傍流で、その力は客観的に見て認めないわけにいかなくても許しがたい思いを放棄することは困難だろう。しかし、今日の箇所では、イエスはエルサレムやゲリジム山のどちらが正統なのかといった議論は無意味で、神は一つで一人ひとりが直接神につながることができると言い放った。この個所に従うと、少なくないサマリヤ人が個として神につながったということになる。キリスト教徒に改宗したということだ。

社会常識として男女平等が進むまでには1000年以上を要したが、福音書の時代にもこの個所のように女性を男性の付帯物にせずに直接神につながることが可能な存在として書かれている個所がある。神の義、御心を注意深く追えば、平等性に近づいていくということだ。当然、それが不都合な集団は抵抗勢力になる。

既存制度に従って生きていくのが現実と思い込んでいた人が、キリストに触れ、個として神と繋がれる可能性を信じた時、社会的水面の下で静かな躍動が始まる。特に、弱い立場の人の思いに力を与えることになる。権力が無理強いしようとしていることでもおかしいことはおかしいと思って良いと考えられるようになる。

アメリカでも、イスラエルでも、イランでも、ロシアでも、日本でも、自分たちだけではなく世界中の全ての人の人権が守られるような道を探索することが神の義として推奨されていると私は考えている。ショートカットの誘惑に陥らないように注意しなければいけない。

※画像は、WikimediaのFile:Nablus panorama.jpg。ヨルダン川西岸地区。原題では、シオニストに怯えながら暮らす民のいる地である。