新生活129週目 - 「イエスとサマリアの女」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第3主日 (2023/3/12 ヨハネ4章5-42節) 」。並行箇所はない。

福音朗読 ヨハネ4・5-42

 5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 

 7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 
 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 
 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 
 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 
 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 
 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 
 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 
 39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 
 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

この箇所の直前は「3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。」とある。この井戸はヤコブの泉だと考えられている。現在はギリシャ正教の施設になっているパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の場所だ。ヨルダン川からは25km程度離れている。エリコからガリラヤなら川沿いの道が適当に見えるが、エルサレムからガリラヤに至る道としてはシカル(Sychar)は通り道にあたる。ゲリジム山の麓にあたり、2km程度の場所だから、サマリアの中心部と言って良い場所だったのだろう。ゲリジム山はサマリア五書ではエルサレムに変わる聖地として記述されている所で、死海文書ではゲリジム山の方が聖地として書かれている。サマリアの女は「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と記されており、ゲリジム山での礼拝が正当と主張していると取って良いだろう。サマリアの人々は我らこそが本家という認識をしていたのではないか。彼らからすれば、エルサレムは歴史修正主義者の巣窟と見えていたかもしれない。福音のヒント(2)で「サマリアは、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂したとき、北王国の中心になった地方です。北の人々は、エルサレムを中心とする南のユダ王国と対立し、ゲリジム山に独自の聖所を持ち、後(のち)にサマリア人として民族的にもユダヤ人と分かれてしまいました。」と書かれているが、現在のモーセ五書とサマリア五書はほぼ完全に一致していて、五書が文書化された時期は紀元前6世紀頃であることを考えると、分裂後も聖書学者はつながっていたと考えないわけにはいかない。サマリア五書には古代ユダヤ語が用いられていて、むしろ古い時代の伝統が守られていた地域なのかもしれない。イエスが生きた時代は第二神殿の時代にあたる。捕囚後の第二神殿の復興ではサマリアからの援助の申し出は断られているようである。イエスはサマリアのことをどう見ていたのだろうか。この箇所でイエスは「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と答えている。事実であれば、場所など関係ないということであり、正統性を主張することに意味はないととって良いだろう。イエスは、福音のヒント(1),(2)で書かれている「壁」に意味はないという考えだったとヨハネ伝の著者が考えていたということになると思う。

この聖書箇所には「このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」とある。この記述が事実であればサマリアの人々は意外と寛容で、外から来た人を排除していなかったように見える。

現在のイスラエルは1948年に国連のパレスチナ分割決議を経て成立した国だ。私の中では、現在のイスラエルと第二神殿を復興したイスラエルがどうも重なって感じられる。右派的な強い思いがあって、正統性を守るためには歴史の改ざんをためらわないような恐ろしさを感じる。非常に排他的な匂いがする。第二神殿の時の政治指導層はかなり適切でないことをやったのではないかと想像する。捕囚の歴史があり、形はどうあれ領土の奪還すれば、今度こそ永続的に国を守れるようになろうと思う人は出るだろう。しかし、そういう防衛的な強さは脆い。

人間イエスは、そういう政治手法を嫌っていたように見える。政府を転覆させようと思っているようには見えないが、それは違うというメッセージは繰り返し発信している。簡単に要約すれば、役に立つから大事にするような考え方に立つな、(誰もが神のもとで平等な)一人の人を偏りなく見て、偏りなく接せよと説いている。そして、そのメッセージは人々の心に届く。強いメッセージを放つ人への依存心は目を曇らすが、事実に謙虚に向き合うのが適切な姿勢であることは誰もが分かっている。真実を求めることで迫害される人は諦めてはいけない。

福音のヒント(3)で「イエスは一方的に、彼女に対して「わたしがいのちの水を与えよう」と言うのではありません。まず、イエスのほうが「水を飲ませてください」と言って彼女と関わり始めます。」と書いてあるところに私は心惹かれるものがある。持てるものが施しをするのは易しいが、距離の遠い人にお願いをするのは易しいことではない。しかし、必要であれば誰に対しても求めるのは自由だし、拒否するのも自由だ。心が開いていて、耐えられることであれば求めに応じることができるし、心が開いていなければ容易なことであっても要求に応じられない。必要なことに相互に応じられる社会のほうが生き残れる確率は確実に高くなるだろう。追い詰められれば、毒の入った水でも飲みたくなるだろうが、真実の水、いのちの水を求める心を大事にしたほうが良い。

相対的に見れば、エルサレムの人々は、サマリアの人々より力がある(本流である)と感じていただろう。その空気をサマリアの人々は不愉快に思っていたはずだ。今のパレスチナの人々がイスラエルに感じる気持ちとつながるものがある。共に生きるという意思を失ってはいけないと思うのである。

排斥してしまう状況にある者に権力を与えてはいけない。

※画像はWikimediaのJesus and Samaritan at Jacob's wellから引用させていただいたもの。