新生活284週目 - 「イエスの姿が変わる」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第2主日 (2026/3/1 マタイ17章1−9節)」。3年前の記事がある。福音朗読個所にはマルコ伝9章、ルカ伝9章に並行箇所がある。

福音朗読 マタイ17・1-9

 1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
 9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


プロテスタント的には受難節2週目。3年前の記事では、過去2年の並行個所の記事を引用している。このシリーズ6回目ということにもなる。生まれた子どもが小学生になったり、小学生が中学生になったりする程度の時が過ぎたということだ。これからどうなるかはわからないが、きっかけとなった砧教会問題は全く解決していない。面倒だと思うが、総会決議違反という疑義を忘れてはいけない。不実の上に、未来を築くのは適切ではないからだ。

マルコ伝の並行個所では直後に「彼ら(弟子たち)はこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」という記述がある。一方で元々のマルコ伝は恐らく空の墓の記述で終わりで復活のイエスを書いてはいない。この問いは今も明白な答えは見つかっていないと思う。ルカ伝24章の「エマオで現れる」では、弟子2人が隣りにいるイエスを認識できなかったと書かれている。「死者の中から復活するとはどういうことか」という問いの答えの一つは、生前とは違うものになるが、それでも復活は復活だとというものだろう。キリスト教は宗派によらず、復活を認めなければ信者とは言えないという主張をする。しかし、復活が(科学的に)何を意味するのか明確に提示できてはいない。

愛と人権の尊重という生前のイエスの教えが、磔刑というショッキングな事実と組み合わされて、しばらくして自由の火(良識の火)が燃え上がっていった。教会は搾取した富の相続を許さない制度を作り上げて、無名の民の成功機会を増大させ、時間をかけて人権の尊重が進展した。それが、結果的に経済成長に資する効果を生み、世界を変えていったという解釈もある。

恐らく現代では、復活がフェイクだと表明する人が増えても、愛と人権(あるいは多様性)の尊重が結果的に他の制度より多くの人を幸せにし、平均寿命も健康寿命も増やすという現実を認めないわけにはいかないだろう。人の心の中はわからないので真実を知りようはないが、キリスト教徒の何割が心の底からイエスの体を伴った復活と昇天を信じているのだろうか。現在の私は、イエスは今も働き続けていると信じているが、葬られてから昇天までの話は正直言って納得いかない。一方で、毎週日本基督教団信仰告白を告白している。公式な立場としては、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」を告白している。うそつきと言っても良いかも知れない。冒頭の旧新約聖書の位置づけは、文書内での様々な矛盾がありながらも、「唯一の正典」と考えることに違和感はない。ただ、その訳ひとつをとっても、「神の霊感によりて成り」と「inspired of God」が本当に一致しているようには感じられない。私は、イエスが磔刑後も働いている事実をパウロの改心とその行動から確信させられるし、自分に起きたこと、他人の受洗シーンなど様々なタイミングでとてもイエスの存在が荒唐無稽なこととは思えないのである。

「死者の中から復活するとはどういうことか」という問いを立てても何ら問題ないと思うが、そこに重きをおいても詮無いことだと思う。

一人ひとりの経験は全て違う。見えている世界も同じではない。3人の弟子の間でも体験は微妙に違っただろうが、何かとんでもないことが起こったのを見たという経験があったのは事実なのだと思う。そうそう起きることではないとは言え、ありえないことが起きたと感じたことのない人はいないだろう。この個所のシーンで実際に何が起きたのか、何が事実なのかという問いを立てるのも問題ないが、唯一の解など存在しないだろう。「死者の中から復活するとはどういうことか」という問いは、「死者の中から復活したイエスに会った」という体験を得た人には意味をなさない。パウロもその一人と言えるだろうし、恐らく多数の信者もありえない体験をしていると言えると思う。磔刑にあって葬られたイエスが今も存在して自分に働きかけていると思う、あるいは感じることは、この世の現実として見ればありえないことだからだ。福音のヒント(4)にある『「過越」の体験』が示していることと同じだと思う。「(今の)苦しみと死から喜びといのちに変えられていく歩み」と考えられれば幸いなことだ。

マルコとマタイは「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と記している。イエスの処刑からしばらくの期間を経て、「死者の中から復活したイエスに会った」という体験をした人にとっては、この記事はあっても不思議ではない話となる。逆に、未信者からしたら荒唐無稽にも、信仰の強要にも感じられる可能性がある。スーパーパワーへの恐れを感じさせることにもなるかも知れない。信者の『「過越」の体験』として振り返って味合うのが適当だと思う。それは個人的な体験でもある。

この記事の中で「葬られてから昇天までの話は正直言って納得いかない」と書いたが、イエスが体をもったまま復活したことを否定しているわけではない。それは「死者の中から復活するとはどういうことか」という問いに取り込まれて迷ってしまうより『「過越」の体験』からくる受洗の原点に戻って、「(今の)苦しみと死から喜びといのちに変えられていく歩み」を歩むことが望ましいことだと思っているということだ。同時に、その望ましい歩みが軋轢を生むことは実は日常茶飯事である。他人がどうその歩みを評価するかはどうでも良い。確信に沿って生きるしかないだろう。

※画像は日本語版Wikipedia主イエスの変容で引用されているロシアの芸術家のもの。こんな感じの体験があったのではないかというのを映像化したものと捉えればよいのだろう。