今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「四旬節第2主日 (2023/3/5 マタイ17章1−9節)」。マルコ伝9章、ルカ伝9章に並行箇所がある。受難節2週目の福音朗読も3回目となり、過去の新生活23週目 - 「イエスの姿が変わる」や新生活77週目 - 「イエスの姿が変わる」を読み返すと感慨深いものがある。
福音朗読 マタイ17・1-9
1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
福音のヒント(1)にあるように共同訳聖書の1節は「1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」とある。16章の最後の見出しは「イエス、死と復活を予告する」となっている。最後の28節には「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」と書いてあるのが印象的なところだ。イエスがそのとおりの発言をしたとすれば、復活のイエスはその国と共に来ると解釈したくなるが、実際には神の裁きがその時に同時に来た事実もなければ、2000年を経ても未到来なので、見ることなくすべての弟子は死んでしまった。
モーセが現れたということだとすると幽霊ということになる。エリヤは生きたまま上げられた説が聖書に書かれているが、そこで時が止まったのだろうか。2000年前にはこんなことが本当に起きたのかと問われれば、私は事実としてそんなことが起きたとは思えないと答えざるを得ない。しかし、ペトロ、ヤコブ、ヨハネにはこのような体験があったのだろう。新生活77週目でも書いたが、物理的にそこにいる人以外の力が働いていると私自身が感じた経験はある。強い体験であれば、幻想が見えることもあるかも知れないと思う程度には、この箇所の記述を受け入れることはできる。
イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
の理由はわからない。3人に同じものが見えていたかもわからないし、あるいはイエスにはどう見えていたのかもわからない。弟子たちを覆っていた空気は重かったのだろうか。マタイ伝の記述としては、最後のガリラヤ伝道の終わり頃に位置づけられていて、人気急上昇期からお上に目をつけられて勢いが削がれ始めている時期にも感じられる。弟子たちは、向かい風と破綻の予兆を感じていたのかも知れない。
良いと思うことを積み重ね、まあまあうまく言っているのではないかと思っていても、なんだか風向きが変わって嫌な感じがすることは誰にでもあるだろう。ひょっとしたら、イエスにも弟子たちにもここまでやってしまうとまずいんじゃないかという思いはあったかも知れない。ユダにはその危機感は強かったのではないかと思う。彼がコミュニティの金に手をつけていたかどうかはわからないが、この集団に属し続けていると自分の将来は暗いと思っただろうと想像する。同じことを言っても、同じことをやっても、風向きが変われば人の評価は変る。そういうものだ。
ただ、じゃあ怯んで引き返せば良いかと言えば、そう簡単な話ではない。かなり最後までついていった弟子たちはペトロの告白に代表されるように、もうこの道で行くと覚悟を決めていただろう。しかし、覚悟を決めていても、イエスが逮捕されれば皆逃げてしまった。逃げたから殺されずに済んだわけだし、殺されずに済んだから、後日談があったと考えれば、逃げてよかったとも言える。それでも、心の傷は残っただろう。
この不思議な記事を弟子たちが経験した時、イエスに何かが起きたか、イエスに何かが起きたと弟子たちが感じたのだろう。イエス自身は何が起きているのか理解していたのだろうか。イエスには、この道で良い、この道を進めという霊的な経験はまず間違いなくあっただろう。極めて困難な道にも関わらず、それを積極的に受け入れることで場が動いたと考えるとちょっとスッキリする。勝手な解釈だが、これはイエスにとって必要な体験であったのではないかと思うのだ。
福音のヒント(4)に「自分の人生の物語を「過越の物語」として受け取る」という記述がある。私の言葉だとそれは覚悟と等しい。ただ、その覚悟が適切な覚悟かそうでないのかは実は誰にもわからないのだ。それでも、自分が真実に至る道と思う道を進む以外の道はない。
※画像はBrooklyn Museum - The Transfiguration (La transfiguration) - James Tissot - overallでWikimediaから引用させていただいたもの。どっちがモーセでとっちがエリヤなのだろう。